第四十二話
リンネは、ゆっくりと立ち上がる。足は震えているのに、それを無理やり押さえつける。
「……行くぞ」
リンネの低い声は、震えていた。
「ミリスと、ヘヴィクムを……追う」
シズクは何も言わない。
ただ、じっと見る。
「……やめておけ」
「やめる理由がない」
「あるじゃろう」
シズクの視線が、リンネの手元に落ちる。
――震える、手元に。
「今のおぬしに、“何ができる”」
「できる!」
被せるように叫ぶ。
「……できる。俺には――」
言い切る前に、ベルトに手をかける。
「変身!」
光は、出ない。
「……っ! 変身!!」
何も起きない。
沈黙だけが、落ちる。
「……なんでだよ」
「力は、嘘をつかぬ」
静かに言う。
「おぬしが正義と言っていた、そのライダーの力。心が折れておる者に、応じるほど甘くないじゃろう」
「折れてなんか――!」
言い返しかけて、止まる。
言葉が、続かない。
手が、ベルトを握ったまま震えている。
「……っ」
もう一度、手を上げる。
だが、途中で止まる。
「……できない」
やっと、出た本音だった。
「……なんでだよ……」
さっきと同じ言葉。
でも、意味が違う。
シズクが、ようやく一歩近づく。
「追うな、とは言わん。じゃがな」
一瞬、間を置く。
「今のおぬしは、“追ってどうする”」
「……っ」
「見つけて、どうする。殺すか? 守るか? 連れ戻すか?」
間を置かない。
「決めてすら、いないじゃろ」
リンネの指が、わずかに強く握られる。
「……違う」
かすれた声だった。
でも、さっきよりは少しだけ強い。
「……できないかもしれない」
シズクは何も言わない。
ただ、続きを待つ。
「でも……何もしないのは、絶対に違う」
握っていた手が、少しだけ緩む。
震えは、消えない。
「悪とか、正義とか……今は、どうでもいい。でも、ミリスは、あんなじゃない。ミリスを、あのまま放っておくのはダメだ」
はっきりとは言えない。
理由も、整理できていない。
シズクは、わずかに目を細める。
「……半端じゃの」
「分かってる。でも、ゼロよりはマシだ」
シズクは、ため息をひとつ落とし、一歩リンネの前に出る。
「そのまま行けば、もし会ったとて、死ぬぞ」
「……ああ。でも、止まっても何も変わらない……だったら、動いてから考える」
シズクはしばらくして、ふっと息を吐いた。
「本当に、面倒な男じゃの」
その声は少しだけ柔らかい。
「ならば条件じゃ。今すぐ追うな」
「……は?」
「頭が冷えるまで待て。少なくとも、“何をするか”一つ決めてから動け。感情を、整理しろ。それが決まらぬうちは、足を動かすな」
雨の音だけが続く。
「……納得はできない」
すぐには、言えなかった。
喉の奥で、一度引っかかる。
それでも、視線を落としたまま、吐き出す。
「でも……今のまま行っても、何もできないのは、分かる」
雨が、強くなる。
「だから……止まる」
言い切ったはずなのに。
手の震えは止まらない。
視線も、上がらない。
ヘヴィクムについて行く。
奥へ進むほど、水槽の揺れも、粒子の流れも、次第に一つのリズムに揃っていく。
やがて、開けた場所に出る。
中央に、黒い球体があった。
完全な円に近く、鼓動のようにゆっくりと脈打つ。
「……」
音はないが、確かに動く。
「ここは、中枢に近い。個ではなく、系としての核だ」
説明はそれだけだった。
ミリスは、球体を見つめる。
理解は、自然に落ちてきた。
「……適応、ですね」
「ああ。入れば、より効率は上がる」
その言葉だけで、十分だった。
ここに入れば、より最適になる。
無駄が消える。
判断が、速くなる。
「……分かりました」
ミリスは、迷わず一歩踏み出す。
足が、黒に沈む。
抵抗は、ない。
次の瞬間、球が体を飲み込む。
最初に来たのは、痛みではなかった。
「……」
あの時のような満ちていく感覚。
何かが流れ込み、理解が繋がる。
見えていなかったものが、見える。
バラバラだった情報が、一つにまとまる。
「……すごい」
思考が軽い。
判断が速い。
迷いが、ない。
正しい。
――違う。
何かが、混ざってる。
自分のものではない“判断”が、自然に組み込まれてくる。でも、異物のはずなのに、排除する必要を感じない。
「……こちらの考えの方が、合理的です」
そう結論づける方が、早い。
黒が、血管の中を巡るようにを這う。
神経の隙間を埋めるように。
整って、無駄が削られていく。
「……」
やがて、球体の脈動が弱まる。
外側にあったはずの“核”が、収束し、流れ込み、消えていく。
――すべて、内側へ。
足が、地面に触れ、ミリスはゆっくりと目を開けた。
粒子の流れも、水槽の揺れも、全部が一つの系として見える。どこに何を加えれば、何を壊せば、最短で最適になるか。
考える前に、見ただけで分かった。
「……問題、ありません」
ヘヴィクムは、少しだけ目を細めるが、何も言わない。
ミリスは、手をわずかに開く。
手のひらから、黒い霧が溢れる。
揺れない。
乱れない。
ただ、思考に従って均一に拡散する。
「……いいですね」
わずかに、指を動かす。
それだけで、霧の密度が変わる。
濃淡が揃い、流れが一本化される。
――無駄が、ない。
その時だった。
「……あれ?」
ほんのわずかに、引っかかる。
霧の一部が、命令より先に動いた。
「……」
もう一度、同じ動きをする。
今度は、はっきりと分かる。
“自分が指示していない最適化”が、勝手に補完されている。
効率は、上がっている。
むしろ、完璧に近い。
「……」
ミリスは、手を止める。霧も、同時に止まる。
止まったはずなのに、ごく微細なレベルで動きが続いている。
ミリスは、何もしていない。
「……?」
視線を落とす。
手は、動かしていない。
だが、霧は“最適な形”に整えられている。
遅れて、理解する。
――これは、自分の操作ではない。
だが。
「……効率的です」
そう判断した瞬間、違和感は消える。
否定する必要がない。
むしろ、この方が速い。
「それに気づくか」
声は、変わらない。
「安心しろ。それは欠陥ではない。補助だ。個が迷う時間を、系が補完する。それだけの話だ」
理屈は、正しい。
否定する理由は、ない。
ない、はずなのに。
「……」
わずかに目を伏せる。
ほんの一瞬だけ、さっきの“蝋燭の火”が頭をよぎる。
非効率で、意味がなくて、すぐ消えるだけのもの。
「……確かに、系の方が合理的ですね」
その返答には、迷いがなく
――早すぎる。
もう一度、霧を動かす。
今度は、何も考えない。
それでも、霧は最適に動く。
「……」
その動きを、ただ見る。
――自分のものだと、理解している。
違和感は、もうない……ない、はずだ。
そう判断する方が、速い。
だから、確かめる必要も、疑う必要も、ない。そう考えた時には、すでに霧の色がさらに深まって、手から溢れ出ていた。




