第四十一話
リンネは、地面に倒れたまま、かすれた声を落とす。
「……ミリス……なんでだ……」
水路には、滴る音だけが残っている。
「……すまぬ」
気づけば、すぐ傍にシズクが立っていた。
「……何が、だ」
リンネは顔を上げると、シズクは一瞬だけ目を伏せる。
「妾の見立てが、甘かった……学園の時の“空白”。あの時点で、何か、入り込んでおった可能性がある」
「……何かって、なんだよ」
「……断定は、できぬ。じゃが……あやつの言う“効率”と、妙に噛み合いすぎておる」
小さく息を吐く。
「妾は、それを“ただの傾向”として見過ごした。楽観視じゃ……らしくもない」
少しだけ、自嘲気味に笑う。
リンネの指が、地面を強く掴む。
「……なんで、だよ」
その時、黒に覆われた空から、冷たい雨が落ちてくる。頬を打つ感覚すら、少し遅れて届いた。
太陽は、もう見えない。
気づくと、ミリスは暗闇の中にいた。落ちているのか、沈んでいるのか、分からない。
感覚が、遅れてくる。音も風もない。何かに包まれている。
「……」
目を開けているのかどうかも、少し曖昧だったが、それでも不思議と見えている。濁っているのに、濁りきっていない。自分の体が、どこにあるのかもはっきりしない。
けれど、不安はなかった。沈んでいく感覚が、むしろ自然だった。
「……問題ない」
誰に言ったわけでもなく、ただそう判断しただけだった。
その時、視界がはっきりとする。広い空間に水槽のようなものが、等間隔に続いている。中では黒い何かが、呼吸のようにゆっくりと動いている。
「……」
足音が、やけに軽い。空気は重いはずなのに、肺の奥まで、抵抗なく入ってくる。
理由は考えない。考える必要がない。
視線を上げると、微細な粒子が漂っている。
見えるはずのない細かさなのに、はっきりと分かる。
――不快ではない。むしろ。
「……適している」
水槽の一つに近づくと、黒い表面がわずかに揺れ、波紋が広がる。
顔を近づけ、じっと観察する。手を伸ばす必要はない。触れなくても、分かる。
「環境には、すぐ順応したな」
「はい」
迷いなく答え、振り返るとそこにはヘヴィクムがいた。
「問題はありません」
淡々と、事実だけを伝える。ヘヴィクムはわずかに目を細めた。
「……そうだろうな」
ミリスは、再び水槽へ視線を戻す。黒が、静かに揺れる。
「……いいですね」
小さく、それだけが落ちる。黒は、ただ続いている。
「……綺麗です」
規則的で、乱れがない。しばらくそれを見ていたが、不意に視線を外す。
「……」
右手を、わずかに持ち上げる。
ただ、そうしただけ。理由はない。
「……ファイア」
指先に、火が灯る。
――蝋燭の炎ほどの、頼りなく、今にも消えそうな光。
「……」
ミリスは、それを見つめる。
熱も、ほとんど感じない。広がらず、暗闇に呑まれる。ほんのわずかに指先を動かすと、炎がかすかに揺れる。
「……」
それ以上は、何もない。菌のように増えない。統一も、意味も、なにもない。時間、出力、影響範囲。
全部が、低い。
「……なんでこんなのを」
答えが出ないまま、ミリスは指を軽く閉じる。
すると炎が一瞬で消える。
「……すみません。時間の無駄でした」
それだけ言って、視線を戻す。黒の水槽の揺れは、最初から何もなかったみたいに、均一に続いている。
――そちらの方が、綺麗で、“正しい”。
「今のは、切り捨てていい挙動だ」
「そう、ですよね」
さっきの炎のことは、もう考えない。
考える価値が、ない。




