第四十話
「……っ、何をした!」
ミリスは、答えない。
ただ、黒を見ている。
さっきより、無駄が減って、動きが、揃っている。
「ミリス、下がれ!」
「……なんで」
足が、どんどん前に出る。
「何をしておる、戻れ!」
シズクの声が重なる。
それでも止まらない。
「ミリス!」
気づいたときには、
ヘヴィクムのすぐ側に立っていた。
黒は、暴れているのに。
この周囲だけ、やけに音が遠い。
「……やはり、そう反応するか」
ヘヴィクムの声が静かに落ちる。
「どうしたんだ!」
声が、後ろから届く。
ミリスは、振り返らない。
「……そっちじゃない」
「何言ってる!」
「こちらにつく方が、効率的です」
ヘヴィクムが、わずかに目を細める。
「……よい判断だ」
その手が、ミリスに触れる。
避ける理由は、ない。
触れた瞬間。冷たいものが、体の奥に流れ込む。
「……っ」
痛みではない。
――満ちていく。
空いていた部分が埋まっていくように、体中を、血管中をめぐる。
「……すごい」
その時、リンネが目に入る。
――遅い。動きも、判断も全部、非効率。
動きが、行動が、気持ち悪い。
「ミリス……?」
自分でも気づかないくらい自然に、一歩前へ出る。
ヘヴィクムの隣へ。
「――非効率」
ただ、そう見えたから言う。
ヘヴィクムが、わずかに頷く。
それだけで、少し落ち着く。
理由はわからない。
ミリスは、ゆっくりと右手を前に出す。
頭の中に知らないはずの術式が、まるで遥か昔から知っていたかのように自然に浮かぶ。
「菌秘技――菌暴走」
その言葉が落ちた瞬間、黒い水溜まりも、砕けた葉も、崩れた石壁の隙間の湿気すらも――全部が、揺れる。
「……拡散」
ミリスが小さく呟いた、次の瞬間。
見えないはずの微細な粒子が、黒い霧のように水路全体へ散っていく。
「……っ、何を――!」
リンネが声を上げた瞬間。
「……解放」
乾いた破裂音が、ひとつ。
もう一つ。
もう一つ。
もう一つ。
「……それはっ!?」
菌が、小さい点滅のように次々と弾けていく。
「待て、どうしてお前がそれを!?」
リンネの声は混乱に近い。
その背後で、シズクが目を細める。
「……あ、あれは」
一拍置いて、言葉が落ちる。
「制御できる類の術ではないことだけは明らか……いや、“あちら側に寄った”と見るべきか……?」
黒い空間が、さらに弾け、ヘヴィクムとミリスの周囲だけが残る。
そこだけ、やけに静かだ。
「……やるな」
ヘヴィクムが初めて、はっきりとミリスを見る。
「初めてでここまで到達するとは思っていなかった」
その声は敵意でも嘲笑でもない、純粋な観察だ。
「ミリス……だったか? 評価しよう」
「ヘヴィクムさん。ありがとうございます」
本当に、それだけの反応だった。
その瞬間。
「ふざけるな! 何を言ってるか分かってるのか!? それは人を救うための力じゃない! 壊すための力だ!」
剣を握る拳に力が入る。
「お前はそれでいいのか! ヘヴィクム側に立って、それで!」
一瞬、空気が止まる。
ミリスはリンネを見た。
「……悪とか正義とか。それは、曖昧で判断基準として、相応しくないです」
「は?」
リンネの声がわずかに震えるが、ミリスは視線を逸らさない。
「効率がいいかどうか。それだけです」
「……それが間違ってるって言ってるんだ!」
「あなたには無駄が多いです。守ることを優先して、かえって効率が悪くなっている」
その一言に、ヘヴィクムは薄く笑う。
黒い霧が、ゆっくりと晴れていく。
「……はぁ……っ」
リンネが息を整えながら、一歩、踏み出す。
「……邪魔です――菌刃」
振り向くより早く、視界が白く弾けた。
光の装甲が、音もなく裂ける。
「……っ、が!」
遅れて衝撃が来る。
体が吹き飛び、白い甲冑に、亀裂が走る。
「おぬし!」
ミリスはただ、そこに立っていた。
剣を振り抜いた姿勢のまま。
無駄がない。迷いもない。
ただ一度の動作で、役割を終えたように。
「……なんで、だ……」
リンネが、なんとか顔を上げる。
だが、装甲が崩れ、光が剥がれ落ちる。
変身が、維持できない。
「……っ」
砕けるように、光が消えた。
膝が地面に落ちる。
「……リンネ!」
シズクが駆け寄ろうとする。
その動きの前に、黒がわずかに揺れた。
ヘヴィクムが、一歩前に出る。
「――止まれ」
それだけで空気が変わる。
シズクの足が、わずかに止まる。
「……貴様」
睨むが、動けない。
ヘヴィクムは、リンネを見下ろした。
「この世界で最初の。森で会った時は、三人いたな……今は、どうだ」
水の滴る音だけが、残る。
「仲間というのは、便利な言葉だが――脆い」
ほんのわずかに、視線がミリスへ流れる。
リンネの指が、地面を掴む。
「……それでも……俺は……」
「行きましょう、ヘヴィクムさん。これ以上は時間の無駄です」
命令でも確認でもない。
ただの事実みたいに。
「そうしよう」
ヘヴィクムは頷く。
その瞬間、黒が足元から広がる。
地面と、空気の境界が曖昧になる。
「ミリス……!」
一瞬、ミリスの視線がリンネに向く。
だが、すぐにヘヴィクムの方に戻る。
そのまま、黒に沈むように崩れる。
最後に、ヘヴィクムがわずかに目を細めた。
「太陽の戦士。貴様は、永遠に孤独に戦う。世界が変わっても、それだけは変わらぬようできている」
音もなく完全に、消える。
「……っ」
残された水路に、沈黙が落ちる。
シズクが、ゆっくりとリンネの側に膝をつく。
リンネは、立ち上がろうと手を地面につき、また崩れ落ちる。
握った手が、わずかに震えている。
その手に、光はなかった。




