第三十九話
旧水路汚染跡は、想像していた水路とは違っていた。
崩れた石壁。折れた鉄の柵。
隙間から、黒く濁った水がゆっくりと滲む。
水はあちこちに散らばっている。
どれも光を吸い込むような、底の見えない色。
足元には、粉々になった葉が積もっていた。
「……ひどいのぉ」
「使われなくなった理由が分かるな」
リンネは短く言い、周囲を見回す。
シズクはしゃがみ込み、指先で黒い水に触れる直前で止める。
「……生きておる、か」
「は?」
「いや、正確には“生きているとも死んでいるとも言い切れん”」
軽く言って、シズクは立ち上がった。
「気味が悪いのぉ」
「……」
ミリスは、その場に立ち止まっていた。
ここは、嫌な場所のはずだ。
なのに――
「……落ち着く」
「何?」
リンネが振り返る。
「いえ……なんでもないです」
うまく説明できない。
水のにおいでも、腐敗でもない。
「気を抜くな。ここは異常だ」
「うむ。確かに、まともではないことは確かじゃな」
そのときだった。
ぽたり、と音がした。
水でも、雨でもない“落ちた”音。
「……っ!」
空気が変わった。
黒い水溜まりが、一斉に静止する。
葉の破片が、微かに持ち上がる。
「そこまで警戒するな」
声は、最初からそこにあったみたいに自然だった。
黒い水面が、ゆっくりと波打つ。
その波の中心から、人の輪郭が浮かび上がる。
ヘヴィクム。
「……ようやく姿を見せたか。――変身!」
薄暗い水路に、眩い光が溢れる。
そして、光の中から――
その光を身に纏ったかのような白い甲冑、蒼く、深く光る目のバイザー。
だがヘヴィクムは、それを見ていない。
視線は、少しだけずれている。
ミリスの方へ。
「……え」
ミリスは、自分でも気づいていなかった。
怖いはずなのに。
警戒するべきなのに。
なぜか、足が動かない。
「その反応は、もうすぐだな」
ヘヴィクムの声は、説明でも断定でもない。
リンネが一歩踏み出す。
「ミリス、下がれ」
その声で、ようやく現実に引き戻される。
「……はい」
だが、一歩目が遅れる。
その間だけ、黒い水面がわずかに揺れた。
シズクが小さく息を吐く。
「……なるほどのぉ。そやつがヘヴィクムか」
そして、楽しそうでもなく、怖がるでもなく。
ただ一言だけ落とした。
「もう、始まっておったわけか」
ヘヴィクムの視線が、ゆっくりと地面へ落ちる。
「……いくぞ」
その時、足元の黒い水がわずかに波打つ。
「……っ」
リンネが踏み込むより早く、ヘヴィクムの足元から、黒いものが“広がった”。
「菌秘技――菌操」
地面を、何かが押し上げているかのようにもりあがる。
「来るぞ」
次の瞬間、地面が裂けた。
黒い塊が、持ち上がる。
スライムのようだが、輪郭が曖昧で形を保っているのか崩れているのか分からない。
「……なんだ、これ」
塊は一つじゃない。
周囲の地面、黒い水溜まり、砕けた葉。
全部が、動く。
「……っ」
ミリスの喉が、わずかに鳴る。
綺麗と、一瞬だけ思った。
無駄がない。
迷いもない。
ただ一つの意思で、全部が動いている。
「下がっていろ」
リンネが前に出る。
黒い塊が、一斉に襲いかかる。
動きは単純だ。
「ソーラーソード!」
リンネは剣を振り下ろし、叩き潰す。
「遅い」
光が塊を真っ二つにする。
ばらけて崩れる。
――はずだった。
「……?」
崩れた部分が、落ちない。
そのまま、繋がる。
逆流するように集まり、切られたはずの部分を埋めていく。
「再生か」
塊が今度は細く、鋭く形を変え、槍のように突き出される。
「っ!」
数が多く、避けてもすぐ次が来る。
避けるだけで精一杯だ。
「……効率、いい」
ミリスの口から、ぽつりと落ちる。
攻撃は単純。
でも、無駄がない。
壊しても、意味がない。
同じことを、同じように繰り返す。
「……ミリス」
顔を上げると、リンネが一瞬だけこちらを見ていた。
「近づくな」
「……はい」
返事はしたが、足は動かさない。
黒い塊が、また一斉に動く。
揃っている。
乱れない。
――壊れない。
その中心で、ヘヴィクムが静かに立っている。
「どうした。それで終わりか? 太陽の戦士」
「……」
ミリスは、それを聞いて拳を握る。
終わりじゃない。
まだ、つまらない。
もっと、長く。
もっと、追い詰めて。
もっと、無駄なく――
その時、黒い槍が、軌道を変える。
そこに、小さな影がいた。
震えて、動けない小さな兎。
「っ! ソーラーシールド!」
槍を弾き飛ばす。
だが、踏み込みが遅れる。
体勢が崩れ、次の一撃がわずかに届きかける。
「……っ!」
ギリギリで避けるが、足が滑り、膝が沈む。
「……」
ミリスはリンネの背中をじっと見る。
今の動きの、意味が分からない。
庇わなければもっと楽に対処できたはずだ。
――理解できない。
守る理由が、ない。
リンネの背中を見る。
――非効率すぎる。
ふと、リンネの方へ向く。
黒い塊が、わずかに縮んでいる。
何度も壊されるたびにほんの少しずつ、減る。
「……これならいける」
リンネが低く呟く。
時間をかければ、確実に終わる。
黒は、確実に減っている。
終わる。
このままだと、
もうすぐ。
――まだ、使える。
この動きは、完成していない。
気づいた時には、足が動いていた。
「ミリス!?」
黒い塊の前へ出て、ポケットから瓶を取り出し、蓋を開ける。
そして勢いよく、かける。
黒い液体が、塊に触れる。
その瞬間、膨張した。
「……っ!?」
黒が増え、動きが速くなる。
「なにを――」
リンネの声が、途切れる。
ミリスは、振り返らない。
ただ、黒を見ている。
――これでいい。
さっきより、いい。
まだ、終わらない。
まだ、終わらせない。




