第三十七話
道はしばらく続いて、やがて遠くに街の輪郭が見えてきた。
さっきまでの森や道とは違って、建物の並びも、道の広さも、“普通”だった。
「……街、ですね」
ミリスが小さく呟く。
リンネは足を止めずに言った。
「疲れただろ」
「え?」
「ここで一度休もう」
「ふむ、妾も賛成じゃな」
後ろからシズクが軽く笑う。
「情報整理には休息も必要じゃろう」
軽い足取りのまま、街へと向かう。
門をくぐると、空気が少し変わった。
人の気配が、バラバラに並んでいる。
「……普通ですね」
「普通が一番じゃろ」
シズクが適当に返す。
リンネはそれ以上何も言わないまま、宿の方へ歩いていく。
――街の人、バラバラで汚いな。
頭に、言葉が現れる。
だがすぐに――
「……そんなこと、ない」
自分で、打ち消した。
その声は、前より小さかった。
宿はすぐ見つかった。
部屋に入ると、三人は自然と分かれるように座った。
「少しだけ休め」
リンネは扉の方へ向かう。
「外を見てくる」
「では妾も少し席を外すとしようかの」
「すぐ戻る」
そうして二人は部屋を出ていった。
扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
ミリスは一人になる。
ふと、机の上にシズクのフラスコがそのまま置かれているのが見えた。
「……これ」
小さく呟く。
中の黒い液体は揺れているだけで、特に危険があるようには見えない。
でも、さっきから頭の奥に残っている言葉がある。
ヘヴィクムさん。
増える菌。
「……これが」
ミリスはフラスコを見つめる。
もしこれが、本当にそうなら。
本当に、そういうものなら。
どこかで広がって。
街が混乱に陥って。
感情が、揺れて。
――面白くて。
「……なに考えてるんだ」
視線を外そうとするのに、なぜか戻ってくる。
机の上のフラスコが、やけに静かにそこにある。ただの液体。そう思うと心が、少し楽だ。
そのとき、廊下の方で足音がした。
リンネの声が、扉の向こうから落ちる。
「……戻った」
それだけで、部屋の空気が少しだけ引き締まる。
ミリスは慌てて視線を上げる。
「はい」
返事をしたときには、もう扉が開いていた。
リンネが入ってくる。
その後ろで、いつの間にかシズクも軽く顔を出している。
「おや、ちゃんと大人しくしておったか」
からかうように言いながら、視線が机に一瞬だけ落ちる。
そして、何も言わずに笑った。
「……大丈夫、じゃな」
そのまま、いつもの調子に戻る。
「一旦休もうか」
その言葉で、全てが終わったみたいに、空気が動き出す。
「はい」
机の上のフラスコは、ただそこにあるままだった。
「……トイレ、行ってきます」
ミリスはそう言って、二人から少し離れた。
「ふむ」
「行ってこい」
二人の声が重ならないまま返ってくる。
歩いていると、扉の先、短い廊下の突き当たりに目がいく。
そこに小さな荷物棚のようなものがあった。
「……?」
そこに、ひとつだけ異様に目立つ瓶が置かれている。
黒い液体が、光を吸い込むように揺れていた。
「……なに、これ」
次の瞬間、頭の奥が軽く跳ねた。
さっきの、フラスコのに似てる。
増えるもの。
ヘヴィクムさんの。
「……これ、もしかして」
指が、勝手に瓶に触れかける。
――“面白そう”
「……」
気がつくと、それはポケットの中に入っていた。
「いや、違う。これ、絶対ダメだ……ダメ、だよね?」
「そんなところで立ち止まってどうしたんじゃ」
背後から、軽い声。
「……っ!」
振り返ると、シズクがいつもの調子で立っていた。
「大丈夫か?」
「……え、あ、はい」
本当は戻すべきだ、と頭のどこかで思っているはずなのに。
それに体は従わない。
「……」
シズクは何も言わない。
ただ一瞬だけ、ミリスを見て。
「なら、行くぞ」
それだけ言って歩き出した。
「……はい」
次の瞬間には、足が勝手に動いていた。
ポケット越しに伝わった瓶の温度は、やけに冷たく感じた。
「出発するぞ」
部屋に戻ると、リンネがいきなり言う。
「……この街も、もう少し見たほうがいいんじゃ」
「いくら見ても同じだ」
リンネは振り返らないまま続ける。
「異常を見つけても、ヘヴィクムを倒さなければ終わらない。今優先するのはそれだけだ」
静かで、揺れない声だった。
「ふむ。確かに、その通りじゃな」
それだけ言って、すでに歩き出している。
「……」
ミリスは一度だけ街の方を見る。
「……はい」
その返事は、少し遅れてついていった。
リンネは扉の方へ歩き、シズクも荷物をまとめている。
「先に行っておるぞ」
「ああ」
二人の声が遠ざかる。
ミリスはそれを見送ってから、ふと足を止めた。
「……少しだけ」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
気づけば、宿の外に出ていた。
街は静かだった。
朝と昼の境目みたいな、どこにも力の入っていない空気。
その時、少し先の路地に、何かが動いた。
「……っ」
ゴブリンだった。
一匹だけ、こちらを見ている。
怖いと思うより先に体が反応する。
逃げなきゃと。
確かに、そう思ったはずなのに。
「……あれ?」
手が、勝手に動いていた。
ポケットの中の瓶を取り出して、蓋を開ける。
黒い液体が、光を吸うみたいに揺れている。
冷たい。
ほんの少しだけ、指先に黒い液体がつく。
「……っ」
次の瞬間、それを軽く弾いた。
風に乗るみたいな、ほんのわずかな軌道。
それがゴブリンに届く。
すると、すぐに変化が起きた。
ゴブリンが喉を押さえるように崩れる。
地面に転がり、動きが乱れていく。
「……」
逃げない。
むしろ、目が離せない。
どう崩れるのか。
どのくらいで止まるのか。
どこから、反応は始まったのか。
やがてゴブリンは動かなくなり、静寂が訪れる。
「……終わりか」
瓶に蓋をしてポケットに戻し、早足で歩き出す。
「……戻らないと」
リンネとシズクがいるであろう、門の方へ向かう。立ち去りかけて、黒い斑点が目に入った。




