第三十五話
今日の夜は、いつもとは別の顔をしていた。
通りには灯りが並び、赤や橙の光が揺れている。
人の声も、音も、どこか浮いていて、まとまりがない。
「……賑やかじゃの」
「はい。なんか、ちょっと落ち着かないです」
ミリスは周りを見回しながら、小さく笑った。
「でも、嫌いじゃないです」
そう言って、近くの屋台に視線を向ける。
甘い匂いが漂っていた。
「……あれ、何ですか?」
「焼き菓子じゃろうな。砂糖と油の塊じゃ」
「雑な説明ですね」
少しだけ笑って、ミリスは店主に声をかける。
受け取った串を、しばらく眺めてから、一口。
「……あ」
目が、少しだけ丸くなる。
「おいしいです」
素直な声だった。
「ほぉ」
「なんか……単純に甘いだけじゃなくて」
言葉を探しながら、もう一口。
「なにか、こう……楽しい感じがします」
「味で感情を語るのか。器用じゃな」
シズクは興味なさそうに言いながら、横目で見ている。
「次、あっち行きましょう」
ミリスはすぐに歩き出す。
人の流れに少しぶつかりながら、それでも気にせず進む。
「忙しいやつじゃの」
「だって、今しかないじゃないですか」
振り返って、少しだけ笑う。
「こういうの、たぶんすぐ終わっちゃうでしょうし」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
別の屋台。
焼ける音。
笑い声。
どれも揃っていなくて、ばらばらで。
だからこそ、うるさい。
「……」
ミリスは、少しだけ足を止める。
「どうした」
「いえ……」
視線は、人の流れの方へ。
同じように笑って、同じように食べて、同じように歩いている。
でも全部、少しずつ違う。
「……なんか」
ぽつりと、こぼれる。
「無駄が多いですね」
あまりにも自然に、落ちた言葉だった。
「あ……ち、違います。今のなしです!」
ミリス自身が、一拍遅れて気づき、慌てて首を振る。
「楽しいです、ちゃんと」
「そうかの」
静かにフラスコを揺らす。
揺れる液体の中で、何かが沈む。
「……」
ミリスはもう一度、人の流れを見る。
笑っている顔
騒ぐ声
ぶつかる肩
全部、ばらばらで
――非効率
「……」
ほんの、一瞬だけ。
“静かに揃った状態”を想像する。
音のない通り。
同じ動きで歩く人間。
無駄のない流れ。
それは、さっき見た校舎の中に、少しだけ似ていた。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……違う」
小さく、自分に言い聞かせるように呟く。
「次、行きましょう」
何事もなかったみたいに、歩き出す。
シズクは、その後ろ姿を見て、わずかに笑っている。
そして、その時――
「やだぁ! 落ちちゃったぁぁ……!」
後ろを見ると、小さな子供が地面に座り込んでいた。
手にしていたはずのアイスは、無残に崩れ落ちている。
「……」
さっきまで笑っていた子供の顔が、一瞬で崩れる。
声も、呼吸も、全部が変わる。
あまりにも、急で。
あまりにも、単純な変化だった。
「……っ」
ミリスは、それを見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
口元が、わずかに緩む。
――だがすぐに、その表情は消える。
「……大丈夫、ですか?」
声をかける。
いつも通りの、優しい声で。
「……ずいぶんと、冷静じゃな」
静かな部屋に戻ってきた。天井は静かで、灯りも消えている。
ベッドに横になると、身体が少しだけ重く沈んだ。
「……」
目を閉じると、暗闇の中で、今日の光景がゆっくり浮かぶ。
屋台の灯り
人の声
笑い声、泣き声
全部、ばらばらだった。
誰も同じ動きをしていない。
同じ感情でもない。
――うるさい。
「……」
あの校舎の中は違った。
静かで。
揃っていて。
乱れがなかった。
感情も、反応も、全部が均一で。
――揺れない。揺れないものは、壊れない。
その考えが、妙にすんなり落ちる。
自分で考えた、というより。
最初からそこにあったものを、思い出したみたいに。
「……あれ」
その違和感に、ほんの少しだけ眉を寄せる。
揺れさせればいい。
感情を。
歪ませて。
崩して。
――そこから、増える。
「……」
そこで、はっきりと形になる。
――ヘヴィクム。
菌。
増殖。
人の中で、勝手に増えるもの。
感情は、揺らぐ。
揺らぐから、崩れる。
崩れるから、広がる。
――効率的。
「……理に、かなってるかも?」
――そうだ、と。
一瞬だけ、思う。
「……っ!」
目を開ける。
暗い天井が、ただそこにある。
「……」
喉が、少しだけ乾く。
今のは、“思いつき”じゃない。
誰かに説明されたみたいに、整いすぎていた。
「……ぼく、こんなこと……」
言葉が続かない。
違う、と言いたいのに。
完全には否定できない。
「……おかしい」
小さく呟いて、目を閉じる。
考えるのをやめる。
これ以上、触れたくない。
――なのに
さっきの“流れ”だけが、頭の奥に残っている。
揺らす。
崩す。
増える。
無駄がない。
綺麗に繋がっている。
「……間違ってる」
その言葉は、浮くだけで沈まない。
どこかで理解している。
どこかで納得している。
それが、消えない。
「……やだ」
小さく漏れる。
その拒否だけが、ちゃんと自分のものだった。
それに縋るように、身体を丸める。
考えない。
もう、考えない。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
――最後に、ほんの一瞬だけ。
“揃って増えていくもの”のイメージが、浮かぶ。
それは、綺麗で。
静かで。
壊れなかった。
それをどう感じたのか。
確かめる前に、意識が途切れる。




