第三十三話
保健室は、やけに静かだった。さっきまでの教室のざわつきが嘘みたいに、音が薄い。
カーテンの隙間から入る光だけが、床に白い線を落としている。
「……」
ミリスはベッドの上に横たえたまま、微かに呼吸をしていた。シズクは入口近くの棚にもたれたまま、フラスコを軽く揺らしていた。
何も言わない時間だけが、長く続く。
――その沈黙が、逆に不安になる。
その瞬間、ミリスの指がわずかに動いた。
「……ん」
次の瞬間、すぐに体を起こす。
「……あれ? ここ、どこ?」
目が、普通に開いている。
焦点も、ちゃんと合っている。
さっきまでの崩れは、どこにもない。
「保健室じゃ」
ミリスは少しだけ周囲を見て、それから小さく首を傾げた。
「なんで、ここに……?」
違和感がない声だった。
俺は、すぐに返事ができなかった。
「……」
言うべき説明はいくらでもあるはずなのに。
その間に、ミリスは軽く体を動かして、ベッドの縁に座る。
「変な夢、見てた気がするんですけど……」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一瞬だけ揺れた。
シズクの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「夢……かの」
「なんか、よく分かんないけど……楽しいような、怖いような、夢」
その笑い方は、普通だった。
普通すぎて、逆に引っかかる。
「……覚えてないのか」
ミリスはきょとんとした顔をする。
「何をですか?」
その一言で、線が途切れる。
さっきの崩れた声も、床に倒れた瞬間も、全部がこの“何も知らない顔”に吸い込まれていく。
普通の反応。
異常がない反応。
「ミリス」
「はい? なんですか?」
間も、ズレもない。
完璧に“今の会話”として成立している。
シズクは静かに続ける。
「崩れたものを直したわけではない。“崩れたこと自体を消した“のかの」
ミリスはその言葉を聞いても、やはり分かっていない顔のまま笑う。
「本当に、何の話ですか?」
「……さっきまでのこと、覚えてないんだな」
ミリスは少し考えてから、小さく首を振る。
「はい。全然」
そして、軽く息を吐く。
その瞬間、保健室の空気は完全に“日常”に戻った。
ミリスはベッドから立ち上がると、軽く伸びをした。
「もう大丈夫です。なんか、少し寝ぼけてただけだったみたいで」
シズクはフラスコを揺らしたまま、入口に歩く。
「寝ぼけ、のぉ……都合の良いように埋まるのぉ」
いつも通りの軽い言い方。
でも視線だけは、ずっとミリスの動きを外さない。
俺は少し遅れて二人の後ろに立つ。
「……行くか」
短く言うと、ミリスが笑って頷いた。
「はい」
その一言で、三人は保健室を出る。
ミリスの、首元。
――そこには、小さな黒い棘が刺さっていた。
「……培養、開始」
誰もいなくなり静まり返った保健室に、小さな声が、響きわたった。
保健室の扉が、静かに閉まる。
「……行くか」
「はい。もう大丈夫です」
ミリスはいつも通りの顔で頷いた。
シズクは最後にフラスコを軽く揺らし、ついてくる。
廊下は相変わらず静かだった。
静かすぎて、足音だけが浮いている。
「……なあ」
少しだけ、言葉を選ぶように口を開いた。
「他の生徒も……戻せないのか」
その瞬間、シズクの足が止まる。
「戻す、じゃと?」
ゆっくりと繰り返してから、ため息をひとつ落とした。
「さっき見たじゃろ」
振り返らないまま、淡々と続ける。
「あれは”戻る“ことではない。もし仮に、同じようにできたとしてもな、そこに残るのは“記憶”ではない」
廊下の先を見据えながら、静かに言う。
「空白じゃ」
ミリスは少しだけ胸元に手を当てる。
「空白……って」
「記憶も、感情も、反応も揃いすぎておる」
シズクの声は淡々としている。
軽く、どうでもいいことのように言う。
「形は残る。じゃが中はもう別物じゃ」
その言葉が、やけに長く廊下に残った。
やがて三人は校舎の出口に辿り着く。
ミリスは一歩外に出て、小さく目を瞬いた。
「……なんか、中の方、静かですね」
シズクはその横で、フラスコを軽く持ち上げる。
「静かではなく、整っておるだけじゃ」
俺は一瞬だけ立ち止まり、それから歩き出す。
「……治せないなら、どうする」
シズクは少しだけ口元を歪める。
「今はどうでもいい。いくらここで揃ってようと、空白が生まれようと、そう言う結果というだけじゃ」
そのまま三人は校門へ向かう。
その風の中に、ほんの一瞬だけ。
誰かの足音の“ズレ”が混じった気がした。
――誰も、それを言葉にしなかった。




