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第三十二話

 ドアを開けると、廊下の空気はやけに軽かった。


「……」


 一度だけ、後ろを振り返る。

 歪んだドアは、もうただのドアに見えた。


 小さく息を吐く。


「……行くか」


 足を踏み出す。


 廊下は静かだ。

 静かすぎて、逆に耳に残る。


 遠くで聞こえるはずの話し声も、笑い声も、どこか揃っている。


 さっき見た教室と、同じだ。


「……やっぱり、気持ち悪いな」


 ぼそりと呟く。

 返事はない。


 当然だ。


 やがて、目的の場所が見えてくる。


 教室の扉は、開いている。

 中から、声が聞こえる。


 笑い声。

 会話。


「……」


 扉の前で止まる。


 呼吸を整える。


 一度、ゆっくりと息を吐く。

 ――ここからだ。


 “ズレ”を、作る。

 意図的に。

 壊すために。


 一歩踏み込む。

 視線が、一斉に向く。


 同時に

 同じ速さで

 同じ角度で

 同じ表情で


「おはよう」


 誰かが、いや、“全員が言った”。


「……」


 返さない。

 空気に、乗らない。

 ――乗っては、いけない。


 ほんの一瞬だけ、間が生まれる。

 だがすぐに、埋められる。


「どうしたの?」

「体調でも悪いの?」

「顔色、少し悪いよ」


 同時に、同じ調子で言葉が返ってくる。


「……ミリス」


 名前を呼ぶ。

 ミリスは、他と同じ動きでこちらを見る。


「なに? どうしたの?」


 みんなと同じ温度。

 俺は、少しだけ視線を落とす。


「……ぁ」


 一瞬、詰まる。

 言葉が出ない。


 予定していた言葉が、出てこない。

 それだけのはずだった。


 だが――ミリスの瞬きが、一度だけ遅れた。


「……っ」


 ほんの一瞬。

 すぐに戻る。


「昨日が、どうしたの?」


 何も変わらない声。

 何も変わらない表情。


 だが、それを見逃さなかった。


「……」


 今のは、“違った”。

 ――そのとき。


 教室の後ろの窓際に、いつの間にかシズクが立っていた。


「……違うのぉ」


 シズクが、小さく呟く。


「今のは……」


 視線が、ミリスに向く。


「今のは、揺れではない……じゃったら、どこからじゃろうか? わからぬな」


 シズクの口元が、わずかに歪む。


「ミリス」


 俺はまた、名前を呼ぶ。


「ん……? さっきから、どうしたの?」


 もう、さっきの違和感はない。いや、今は見えない。


「……お前は、そんなのじゃ、ない」


 その言葉に、周りは困惑する。


「え、なに?」

「ひどくない?」


 やはり、それすらどこか揃っている。

 だが――


「な……なにいってるの?」


 その中の一人、ミリスの反応だけ、わずかに違う。


「……思い出せ。今のお前は……昔のお前と同じか?」

「い、いきなりなんなの? そんなの決まって――」


 ミリスは答えようとして、目を瞑る。


「昔……むか、し? あれ……? どんな、だったっけ なん……どうして……!」


 ミリスは、手で顔を覆い、床に小さくうずくまる。


「なんで……わかんない……なんで、なんで、なんで……ど……うし…ああ……」


「どうしたの?」

「大丈夫? 保健室行く?」


 周りが、また“引き戻そう”とする。

 だが――


「んね……ん……ぼく、ぼ、は? ……ぁあ…!」

「違うのぉ」


 シズクの声は、誰にも向けていないようで、確かにそこに落ちるようだった。


「それは、やはり崩壊ではない。ズレじゃ」


 リンネは一瞬、眉を動かす。


「ズレ?」


 シズクはフラスコを軽く揺らしたまま続ける。


「この個体は壊れておるのではない。基準がずれてしもうただけじゃ」


 教室の空気が、少しだけ薄くなる。


「ん……さ……ぼく……あ……あ」


 俺は、ゆっくりとミリスのそばにしゃがみ込んだ。

 そして、ミリスの頭にそっと手を当てる。


「俺は、リンネだ……ミリス」


 その名前を、もう一度。

 その瞬間、ミリスの肩がわずかに止まった。


「……りんね……さん……?」

「ほぉ……」


 シズクが目を細める。


「ぼく……は……」


 言葉が、形になりかけて崩れる。


「ぼくは……ぼく……は……」


 呼吸が荒く、浅くなる。


「わかる……かも……りんね……」


 その直後だった。

 糸が切れたみたいに、ミリスの身体が前に傾く。


 支えようとする力もないまま、床に落ちる。

 音だけが、教室に遅れて響いた。


 シズクは小さく息を吐く。


「今のはのぉ」


 視線はミリスではなく、こちらへ向く。


「おぬしを、記憶から引っ張り出そうとして、ショートしたのかもしれぬ……あくまで、仮説じゃが、たぶん、そういうことじゃ」


 指先が、わずかに動く。


 ただ、笑うでもなく、観察するでもなく、淡々と告げる。


「ただ、一度壊れてしもうた以上、もう戻らぬかもしれぬの……」


 教室の空気が、沈む。


「ミリス、ちょっと――」

「保健室連れてった方がいいよね」

「ねえ、誰か――」


 椅子が鳴る。誰かが立ち上がるが重なる。“揃っていたもの”が、少しだけ乱れた。


「――近寄るな」


 声は低いのに、教室の奥まで一気に届いた。シズクが窓際から一歩も動かずに言っただけだったのに、空気がぴたりと止まる。


「……観察のじゃまじゃ」


 言い終わるより先に、フラスコがわずかに揺れる。中の黒い液体が、重く沈むみたいに動いた。


「動くな。全部、ずれる」


 周りの声が止まる。


 その時、俺はミリスの隣にしゃがみ込む。床に落ちたままの身体は、さっきよりも浅い呼吸を繰り返している。


「……保健室だ」


 小さく言う。

 誰に向けた言葉でもない。


「ベッドがあるはずだ」


 そう言い、ミリスの腕を支えた。

 軽い。というより、どこにも“重さの芯”がない感覚だった。


「ん……ね……さ……?」


 かすれた声が一瞬だけ形になる。


 そのまま、また崩れる。

 肩に手を回し、支える力を少し強める。


「歩けなくていい。運ぶ」


 背後で誰かが動こうとする気配がした。


「ちょっと待ってよ」

「そのままの方がいいんじゃ――」


 しかし、その一歩目が出る前に。


「だから、言うたじゃろう……」


 シズクが、ため息をひとつ落とす。

 次の瞬間


「近寄るな!!」


 教室の空気が揺れた。

 低い声なのに、圧だけが異常に重い。


「観察のじゃまじゃ!! ずれると言ったじゃろ!!」


 誰も、それ以上前に出られない。

 シズクはそれ以上見もしない。その一言だけを残して、視線をミリスへ戻す。


 俺はその間に、すでに教室の外へ足を向けていた。


「今は、無理するな」


 小さく、しかしはっきりと言った。

 腕の中のミリスは、微かに、冷たかった。

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