第三十一話
廊下を歩いていると、さっきまでの教室の気配がまだ頭に残っていた。
笑い声も、授業の声も、全部同じに聞こえる。
「……気持ち悪いな」
誰に向けたわけでもない言葉が、自然に漏れる。
戻るべき場所は分かっている。
正確には、そこしかない。
俺は足を止めずに歩いた。
――特別個人感情研究室。
歪んだドアは、前と同じ位置にあった。
何も変わっていないように見えるのに、近づくほど違和感が濃くなる。
「……ここしかないか」
ノックはしない。
開ける。
音は、しない。
また、中の空気が一瞬だけ吸われる感覚。
部屋は、前より散らかっていた。
付箋の並びが少しずれている。
紙の位置が、わずかに違う。
それだけなのに、全体が落ち着かない。
あの学園内と同じ建物とは思えない。
「来たか」
声は、変わらない。
机の上に座っていたシズクが、顔だけこちらに向ける。
「また来るとは、律儀なことじゃな」
「話がある」
「わざわざ言わずとも分かっておる」
シズクは軽く足を揺らした。
「“揃いすぎている”のが気になるんじゃろ?」
俺は返事をしない。
代わりに、視線を送る。
「……あの原理は、妾にもわからぬ」
少しの沈黙。
そして――
「……は?」
単純な困惑が、口から溢れる。
「バカにしてるのか?」
「いや、わからぬものはわからぬ。あの現象は、原因不明と定義したのじゃ――じゃがな」
机から静かに降りる。
そして、こちらに近づく。
「今は、それを戻す研究をしているのじゃよ。あんな状態の個体じゃ、まともに研究すらできんわ」
「お前は、何をしようとしている」
「一から説明しろ」
シズクがため息をはく。
「だいたいわかるじゃろ。面倒くさいのぉ。皆が揃いすぎてて気持ち悪いのじゃろ? それを戻す。この――」
そこまで言うと、持っていたフラスコを揺らす。中の黒い液体も揺れる。
「この、異界の菌を使ってのぅ」
異界、菌、その言葉に、俺は目を細める。
「……その反応。おぬし、何か妾の知らぬことを知っているの?」
俺は、迷わず頷く。
「……それを使うのはやめろ。それは、人類に制御できる代物じゃない」
俺が低く言い放つと、シズクは目を見開き、少し黙る。
「おぬし、どの角度の情報を知っておる? 知っていること、洗いざらい話してもらおう」
「……ヘヴィクム。その菌はそいつのだ」
「ほうほう……ヘヴィ、クム」
シズクが確かめるように呟く。
「……あいつは別の世界から来た」
そこまで言うと、シズクが止めるように言葉を出す。
「少し待て……」
シズクは目を瞑る。
少ししてシズクが疑問を口にする。
「なぜ、そこまで知っておる」
少し迷う。だが――
「お前たちとは違う世界を見てきた。俺が……あいつを殺した」
「ほぉ……」
シズクの見方が変わる。
「俺には――」
そこまで言うと、俺は腰のベルトに手をかける。
「――変身」
静かに、呟く。
その瞬間、光が薄暗い部屋に広がる。
「な、なんじゃ!?」
視界を光が覆う。
そして、光が収まると
白い鎧。蒼に光るバイザー。脈打つ胸の光。
「な……! そんなこと……!?」
シズクは驚きで、床に尻から倒れ、混乱している。
「……これが、俺の正義だ」
静寂が部屋を包む。
「それはなんなんじゃ!?」
シズクの声が飛び込む。興奮しているような声。
「どう言う原理じゃ!? いきなり光ったと思うたら、そんな……!」
シズクは驚きと興奮のあまり、呂律が乱れる。
「一旦、落ち着け」
そう言っても、シズクの好奇心は止まらない。
しばらくすると、シズクはゆっくりと立ち上がる。
さっきまでの取り乱しが嘘みたいに、目だけが鋭くなっていた。
「……なるほどのぉ」
その視線が、まっすぐこちらを貫く。
「異界で敵と接触し、それを討伐した個体。そして、その力をこちらでも自らのものとしておる……か」
口元が、わずかに歪む。
「面白い」
さっきまでとは違う寒気。
「……おぬし。その力、どこまで制御できておる?」
「暴走は、しない。少なくとも、お前のそれよりはな」
フラスコを見る。
黒い液体が、ゆっくりと揺れる。
シズクは一瞬だけ視線を落とし――すぐに笑った。
「言うようになったのぉ」
そして、歩み寄る。
「じゃがな、未適応……いや、リンネ。妾は止まらぬぞ」
その声は静かで、はっきりしていた。
「この学園は壊れておる。原因が不明なら、手段は選ばん」
フラスコを持ち上げる。
「たとえ異界の力でも、たとえどれだけ危険でも、“使えるなら使う”」
俺は一歩も引かない。
「……それで人が壊れるなら、意味はないだろ」
「すでに、壊れておるわ」
空気が、張り詰める。
シズクの目が細くなる。
「ならどうする? おぬしの“正義”で、この状況をどうにかできるのか?」
一瞬だけ、教室の光景が脳裏をよぎる。
揃いすぎた笑い。
ズレのない反応。
――ミリスの顔。
「……やる。もちろん、それを使わずにだ」
シズクは、しばらく黙ってから――
小さく笑った。
「いいじゃろう」
その目は、完全に研究者のそれだった。
「なら、見せてもらおうかの、おぬしの“正義”とやらを」
長い沈黙の後。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「――解除」
次の瞬間、白い装甲が光に溶けるように消えていく。蒼い光も、脈打つ鼓動も、すべてが静かに消える。
元の姿に戻ると、部屋の空気が急に重くなった気がした。
「……ほう」
シズクが一歩、近づく。
「随分と都合の良い力じゃな。現れて、消える。制限も見えん」
シズクは一瞬だけ目を細め、すぐに笑った。
「それでも成立しているのじゃ、なんと摩訶不思議か」
間が落ちる。
シズクはフラスコを軽く揺らした。
「……で? その“正義”で、どうやって崩すつもりじゃ」
俺は少しだけ視線を外す。
さっきの教室。
あの揃い方。
――でも。
「完全に揃ってるわけじゃない」
「……なん、じゃと?」
「ほんの一瞬だけ、ズレた」
シズクの目がわずかに開く。
「笑いのタイミングが遅れたやつがいた。誰も気にしてなかったが、俺は見た……消しきれてない“何か”がある」
シズクの口元が、ゆっくり歪む。
「なるほどのぉ……ほう、ほう……」
楽しそうに、呟く。
「その“残り”を引きずり出す、と?」
「……個を思い出させる。無理やり、でもな」
シズクは少しだけ肩を揺らして笑う。
「強引じゃのぅ」
あの教室の光景が、また頭をよぎる。
「……このままだと、完全に揃う」
シズクは、しばらくこちらを見ていたが
「いいじゃろう」
そう言って、くるりと背を向ける。
「なら、その理論……証明してみせい。誰でやるつもりじゃ?」
迷いはなかった。
「……ミリスだ」
一瞬だけ、空気が変わる。
シズクが、興味深そうに目を細める。
「ほぉ……一番、沈むのが早い個体……じゃな」
「ああ、崩せるなら、あいつが一番わかりやすい」
シズクは小さく笑った。
「失敗すれば、完全に取り込まれて終わりじゃがの」
「……他に選択肢はない」
シズクは肩をすくめる。
「好きにせい。妾は何もせぬ」
その言葉は、少し冷たくて、少しだけ、楽しそうだった。
俺は背を向け、ドアに手をかける。
「……一つ、言っておく」
振り返らずに言う。
「菌は使うな」
「今は、じゃがな」
シズクは、くすりと笑った。
「結果次第じゃ」
――信用はしていない。
だが、止める時間もない。
ドアを開ける。
外の廊下は、相変わらず静かだった。
「……まだ、崩せる。まだ、間に合う」
小さく呟き足を踏み出す。
向かう先は、決まっていた。




