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第三十話

 教室には、規則正しいノートをめくる音が並んでいた。

 黒板の文字も、机の配置も、何もかもが揃いすぎている。


 その中で、ミリスの声だけが少し浮いていた。


「え、なにそれ!? そんなことある?」


 隣の席の生徒が笑う。


「あるある! 昨日さ、先生がさ〜!」

「え、待ってそれ面白っ!? あははっ!」


 ミリスが笑う。

 声が高く跳ね、教室の空気に混ざる。


「あははっ……それ、ほんとに言ったの? すごいね!」

「言った言った!」


 笑いが一度止まって、また弾ける。

 机に軽く手をついて、肩を揺らして笑う。


「ミリスちゃん、今日テンション高いね!」

「そうかな?」


 ミリスは一瞬きょとんとしてから、また笑う。


「えへへっ、なんか……楽しいっ」


 その言葉も、軽い。

 授業が始まる。


「じゃあこの問題、誰か分かる人」


 一瞬、沈黙。


「はい!」


 ミリスが勢いよく手を上げる。


「はい、ミリス」

「えっと、これはこうして……あ、違う!」


 教室に小さな笑いが起きる。


「違ったのに元気すぎるだろ」


 ミリスは自分でも笑う。


「でも今のちょっと惜しかったよね?」

「惜しいどころか全然違う」


 また笑いが広がる。

 教師が軽く咳払いする。


「じゃあ次は正解まで考えてみようか」

「はい!」


 返事だけはやたら元気だ。

 しばらくして、隣の生徒が小さく言う。


「ミリスちゃん、なんか変わった?」

「え?」

「前の緊張してた時と別人みたい!」


 ミリスは一瞬止まる。


 息が、ほんの少しだけ途切れた。

 ――何かが浮かびかける。

 ――自分の声が、どこか遠く感じた気がした。


 けれどその輪郭は、すぐに崩れる。

 代わりに、軽い笑いがこぼれた。


「そうかなぁ?」


 そのまま、また黒板を見る。


「えっと、さっきの続きだよね?」


 空気はそのまま進む。


 誰も気にしない。

 むしろ、自然に馴染んでいく。


 笑い声が、少しずつ増えていく。

 ミリスも、その中心にいる。

 明るい声が重なるたびに、教室は軽くなる。


 その中でミリスは一度だけ、ほんの一瞬だけ、言葉を探すように目を伏せる。


 ――何のためにここにいるの?

 考えようとする。

 だけど、そんなの考えない。

 考えたくない。


 すぐに顔を上げる。

 そしてまた笑う。

 そっちの方が、楽しいから。


 授業は進んでいく。

 何も壊れてないように“見える”まま。




 授業の始まる時間を過ぎても、俺は教室に戻らなかった。


 戻らないというより、戻れない気がした。


 廊下は静か。

 静かすぎる。


 どこにいても、同じ空気を吸っているような感覚。


「……なんなんだ、この感じ」


 小さく呟いて、歩く。


 教室の前を通る。

 中では授業が進んでいる。


「はい、じゃあこの問題は?」

「はい」


 即座に手が上がる。

 声の速さも、間の取り方も、揃っている。


 正解かどうかよりも、“流れに乗ること”が前提になっているような反応だ。


 次の教室。

 別の授業。

 同じように“整った”空気。


 黒板に向かう姿勢も、ノートを取るリズムも、話し声でさえ、どこか一定だ。


「……全部同じだな」


 気づいた瞬間、少しだけ息が詰まる。


 もう一つ教室を覗く。

 笑い声が聞こえた。


「それ、マジで?」

「やばっ、ウケる!」


 誰が、何を話していても、同じ速度、同じ温度で笑いが起きているような感覚。


 だが。


「…! あははは!」


 一人の笑いが、微かに遅れた……気がする。

 だが、そんな些細なことは、もう流されている。それを覚えているのは、俺だけだ。


 違和感が、少しずつ積み重なる。


 俺は足を止めない。


 廊下の先、ひとつの教室。

 そこに、ミリスがいた。

 だが、そこも空気は同じだった。


「ほんとそれ! それでさ〜!」

「あははっ、それ面白い!」


 声が弾んでいる。

 机の周りの生徒も同じように笑っている。


 違いがない。


 ただ一人が話しているんじゃない。

 全員が“同じ”。


「ミリスちゃん、今日ほんと明るいね!」

「そうかな? あはははっ!」


 そのやり取りも、滑らかすぎる。

 引っかかりがない。


 人と人の間に、絶対にあるはずの“ズレ”が、どこにもない。


 俺は扉の前で立ち止まる。

 胸の奥が、嫌な形で沈む。


「……おい」


 誰にも聞こえない声で呟く。

 ミリスはそこにいる。


 昨日と同じ顔で笑っている。

 ――だが、何かが違う。


 いや、違うんじゃない。逆だ。

 ――“同じになってきている”。


 視線を動かす。

 別の生徒。

 その横。

 そのまた隣。


 誰も崩れていない。

 誰も逸れていない。

 揺れがない。

 ズレがない。

 ――それは、ミリスも例外ではない。


「……まずいな」


 喉の奥で言葉が落ちる。

 もう否定できないところまで来ている。


 個じゃなく、場が。

 人じゃなく、反応が。


 そして誰も、それを違和感として見ていない。


「……時間がない」


 誰に向けた言葉でもない。

 もう一度教室を見る。

 ミリスはまだ笑っている。


 その笑いは、自然だった。

 俺は歩みを進める。


 ミリスだけがおかしいのではない。

 ――もっと、全体の話だ。


 俺は、どこへ向かうか定かではない足を進める。

 ――放っておいたら、取り返しがつかない。

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