表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/46

第二十九話

 そこには、シズクが机に腰掛けていた。


 さっき見た姿と同じはずなのに、どこか違う。そんな気がした。


「こんな時間から来るとは元気じゃな。未適応個体」


 俺は一歩も動かずに見返す。


「ここは何だ」


 シズクは少しだけ首をかしげる。


「見ての通りじゃよ。研究室じゃ」

「それは分かる」

「ふむ。では質問をしようかの」


 シズクは軽く足を揺らす。


「お主らの“正しい状態”とは何じゃ?」

「……は?」


 声が低くなる。

 シズクは楽しそうに笑った。


「適応しきった者は皆、同じ顔をする。ならそれは正しいのか、それともただの均一化か」


 付箋の一枚が、ひとりでに揺れた気がした。


「ここはな」


 シズクは立ち上がる。


「壊れているものを壊す場所ではない。“壊れたことに気づかないものを、正す場所”じゃ」


 俺は視線を外さない。


「正す?」

「そうじゃ」


 シズクは笑う。


「今のあやつらは少し歪んでおる」


 シズクはメガネを服の袖で拭く。


「歪んでおるのは問題……いや、違うな。気づかぬまま普通になる、それが問題か? だから戻す。普通に……いや、普通とは少し違うかの? まあ、そんなのは気にするでない」


 シズクは軽く肩をすくめる。


「結果が成功なら、全部どうでもよい」


 紙が一枚、床に落ちる音がした。

 それがやけに大きく響いた。




 シズクはしばらく、机の上からこちらを見ていた。


「なるほどのう」


 ぽつり、と言う。


「観察はここまでで十分じゃな」


 次の瞬間、シズクは机から軽く飛び降り、床に落ちた紙を一枚拾い上げ、くしゃりと握る。


「帰れ」

「は?」


 短い言葉。

 それだけだった。

 シズクはもうリンネを見ていない。


 視線はすでに別の付箋に向かっている。


「お主はここに長くおってはいかん」

「理由を言え」


 シズクは一瞬だけ止まる。

 それから、少しだけ面倒そうに息を吐いた。


「理由など要らんじゃろ」


 その瞬間だった。

 部屋の空気が、わずかに“押された”。

 圧力というより、方向。


 視界の端がずれるような感覚。


「……っ」


 リンネの足が、ほんの少し後ろへ動く。

 気づけば、入口の方に視線が寄っている。


「勝手に決めるな」

「勝手ではない」


 シズクはようやくこちらを見る。

 その目は、さっきまでよりも少しだけ冷たい。


「ここは“長く居る場所ではない”と決まっておる……たぶんな」


 シズクの声は軽い。

 けれど拒否を許す重さだけがある。

 一歩も動かないまま、数秒の沈黙。


 そして――


「……わかった」


 その言葉は負けでも納得でもない。

 ただ、切り上げだ。

 足を踏み出す。


 研究室の中の紙が、また一枚だけ揺れた気がした。


「もう来るでないぞ」


 背中に、軽い声が飛ぶ。

 リンネは振り返らない。


「来るかどうかは、こっちが決める」


 そのまま、ドアへと歩く。


 外に出た瞬間。

 さっきまでの空気が一気に消えた。


 廊下はまた、完璧に整っている。

 静かで、均一で、感情のない、どこか不自然な空間。


 さっきの部屋だけが、まるで別の世界にあったようだった。


「……気味が悪いな」


 小さく吐き捨てて、リンネは歩き出す。


 背後のドアは、何事もなかったように閉じていった。




 廊下の窓から差し込む光は、さっきよりも少し強くなっている。


 さっきまでの研究室の空気が、もうほとんど遠い。

 整った廊下は、いつも通り不自然な静けさが漂っていた。


「……もう朝か」


 小さく呟く。

 その時だった。


「リンネさん」


 声がした。

 振り向くと、ミリスが立っていた。


 制服はきちんと整っている。

 昨日と同じはずなのに、どこか違って見える気がする。


「おはようございます」

「……ああ」


 俺は短く返す。

 一瞬、間が空く。


 普通なら、それで終わる会話だった。

 だが、止まらなかった。


「昨日は……何してた」


 自分でも少し雑な入り方だと思った。

 ミリスは一瞬だけ瞬きをする。


「昨日ですか?」

「そうだ」


 ミリスは少しだけ考えるように視線を上に向ける。


「寮で他の生徒とお話してました」

「話してた?」


 リンネの声がわずかに強くなる。


「はい」


 ミリスは何も変わらない表情で頷いた。


「寮のことや、食堂のことなど、色々教えてもらいました」


 言葉は普通だ。

 内容も普通だ。


 なのに

 ――薄い。

 まるで、教科書を淡々と読んでいるようだ。


「……あいつら、おかしいと思わなかったのか」


 俺は言葉を選ばずに言った。

 ミリスは小さく首を傾げる。


「おかしいですか?」

「……ああ」


 ミリスは、困ったように小さく笑った。


「そんなことないです」

「いい方々です」


 その言い方が、引っかかる。


「普通に接してくださって、優しくて」

「その普通が、変だって言ってる」


 少し強めに返す。

 ミリスは一瞬だけ止まる。

 それでも――


「そうですか」


 首を傾げるだけ。

 否定でも肯定でもない。

 ただ、理解していないように。


 俺は視線を逸らす。


 昨日の寮での言葉が一瞬だけ頭に浮かぶ。

 あの感じ。

 あの空気。

 ――あの、気持ち悪さ。


 違和感が、はっきりと形になる。

 俺は小さく息を吐く。


「……そうか」


 それ以上、言葉が続かない。

 ミリスは少しだけ微笑む。


「それじゃあ、また」


 そして、歩いていく。

 その背中は、昨日よりも少しだけ“自然”に見えた。


 俺はしばらく、その背中を見ていた。


「……気のせいじゃないな」


 誰にも聞こえない声で、そう言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ