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第二十八話

 薄く差し込む光で、ミリスはゆっくり目を開けた。


「……ん……」


 体が少し重い。眠気が残っているというより、頭の奥がぼんやりしている感じだった。


 何かを考えようとしても、うまく形にならない。


「……朝……」


 小さく呟いて、ゆっくりと体を起こす。

 昨日のことを思い出そうとして、少しだけ引っかかる。

 けれど、それもすぐに薄れていった。


「……行かなきゃ」


 理由ははっきりしないのに、そう思う。


 制服に着替えて、部屋を出る。

 廊下には、すでに何人かの生徒がいた。


「おはよー」

「おはよう」


 いつも通りの、揃った声。

 ミリスは少しだけ間を置いてから、口を開く。


「……おはようございます……」


 その瞬間、何人かが軽く笑った。


「敬語いらないよ」

「うん、気使わなくていいし」

「そのままでいいよ」


 重なる声。どれも柔らかい。


 ミリスは一瞬だけ、言葉に詰まる。


「えっと……でも……」

「大丈夫だって」

「ここ、そういうの気にしないから」


 すぐに、言葉が重なる。

 考えようとして

 ――思考が少し遅れる。


 何か、引っかかるはずなのに。

 その“何か”が、うまく掴めない。


「……じゃあ……」


 ほんの少しだけ、間。


「……おはよう」


 一人が、にこっと笑う。


「うん、それいい」

「なんかそっちの方がミリスちゃんっぽいよね」


 くすくすと笑いが広がる。

 そのまま、自然に別の話題へ流れていく。


「今日さ、朝のメニュー美味しい日だよね」

「そうそう、あの種類多いやつ」

「すごい美味しいんだよね」

「へえぇ……」


 ミリスも、小さく頷く。


 気づけば、さっきの会話のことはもう頭から薄れていた。


 違和感があったはずなのに。

 それを思い出そうとすると、なぜか少しだけ疲れる。


「ミリスちゃん、朝弱い?」

「ちょっとぼーっとしてるよね」

「……そう、かもしれません」

「あ、また敬語」


 その指摘で、また笑いが起きる。


「あ……」


 ミリスは少しだけ困ったように笑って


「……そう、かも」

「うんうん、それでいい」


 また同じ言葉。


 理由は分からないまま、その言葉に少しだけ安心する自分がいた。


 会話は途切れず続く。


 ミリスの中で、少しずつ何かが変わっていく。そんな気がした。


 考えようとすると、少し遅れる。

 言葉を選ぼうとすると、その前に別の声が入ってくる。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 むしろ――やりやすい。


「ミリスちゃんさ」

「なに?」


 自分でも、少しだけ驚く。

 さっきより、声が自然に出ている。


「もっともっと笑った方が可愛いと思うよ」


 一瞬、思考が止まる。

 どう返すか考えようとして――


「ほら、こんな感じ」


 隣の子が軽く笑う。

 それを見て、ミリスの口元が、自然に動いた。


 その瞬間。

 胸の奥が、ふっと軽くなる。


「あ……」


 さっきまでの重さが、少し消えていた。


「いいね、それ」

「うん、その方が可愛い」


 声が重なる。

 否定する理由が、見つからない。

 それどころか、そのままでいた方が楽な気がした。


「うん」


 もう一度、笑う。

 さっきより、少しだけはっきりと。


「いい感じ」

「その調子でいこう」


 その言葉が、すんなり入ってくる。


「じゃ、ご飯行こ」

「うん、ちょうどいい時間だし」


 流れに乗るように歩き出す。

 ミリスも、そのままついていく。


 足取りは、少し軽い。


 食堂に入ると、昨日と同じ光景が広がっていた。

 整った空気。揃った声。

 でも、もう気にならない。


「ミリスちゃん、何食べる?」

「えっと……」


 少しだけ考える。

 でも、その時間すら楽しい。


「甘いのある?」


 自然に出た言葉に、自分で少しだけ驚く。


「あるある、デザート系もあるよ。そっち好きなんだ」

「うん、甘いの好き」


 はっきり答える。

 気づけば、また笑っていた。


「じゃあそれにしよ」

「絶対合うって」


 声が重なる。

 ミリスは頷いて、


「うん、楽しみ」


 今度は、迷わず言えた。

 あれ? なんで楽しみなんだろう?

 ――まあ、そんなことはどうでもいいや。




 夜明け前の廊下は、妙に静かだった。

 静かすぎて、音が薄いというより最初から存在していないみたいだった。


 俺は足を止めることなく歩く。

 シズクが消えていった方向に。


「……こっちだな」


 誰に言うでもなく呟く。


 学園の建物はどこを見ても整っていた。

 床の光沢も、壁の直線も、ドアの位置さえ正確すぎるほど揃っている。

 ――その中で、ひとつだけ違うものがあった。


「……ここか」


 廊下の先。

 等間隔に並ぶドアの中に、それはあった。


 ひとつだけ、わずかに傾いている。

 塗装も少しだけくすみ、他と比べて明らかに“管理されていない”。



 近づくほど、違和感がはっきりしてくる。

 ドアの上には、プレートが掛かっている。

『特別個人感情研究室』


「……感情?」


 一瞬だけ、眉をひそめる。


 手を伸ばす。

 ドアノブは冷たく、しかしどこか湿っているような感触があった。


 ゆっくりと押す。


 きしむ音はしなかった。

 代わりに、音が吸い込まれるように消えた。


 中に入ると、空気が変わる。


 廊下の“整いすぎた静けさ”とは違う。

 もっと雑で、もっと人間的な空気。


 床には紙が散乱していた。

 踏みつけられた跡も、拾い直された跡も混ざっている。


 壁一面には付箋が貼られている。

 色も大きさもバラバラだが、どれも細かく文字が書いてある。


 文字は綺麗なものもあれば、乱暴に書き留めたようなものもある。


 ――適応

 ――逸脱

 ――個体差

 ――再構築

 ――修正


「……何だこれ」


 部屋は広かった。

 想像よりもずっと広い。


 奥へ進む。

 紙を踏むたびに、わずかに音が沈む。


 そして、その中心に。


「おお、来たか」


 空気に合わないような、軽い声。

 そこには、シズクが机に腰掛けていた。

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