第二十七話
笑顔のまま、距離だけは変わらない。
――引かない。
その揃い方だけが、妙に引っかかる。
「じゃあ、案内しよっか」
「うん、初めてだと迷うよね」
自然な流れだった。誰が主導するでもなく、正解があるかのように周りが動く。
俺は一瞬だけ周囲を見たが、何も言わず歩き出す。ミリスもその後を追った。
廊下はどこまでも整っていた。
床は光を反射するほど磨かれていて、壁には無駄な装飾が一切ない。掲示物もきれいに整えられ、端が一切ズレていない。
「まずは食堂かな。ちょうどお昼も近いし」
案内されるまま、二人は食堂へ向かう。
中に入ると、すでに何人かの生徒が座っていた。
静かだった。
会話はある。だが、どれも小さく、均一で、波がない。
笑い声すら、どこか揃っている。
「ここ、自由に使っていいからね。味もちゃんとしてるよ」
一人がそう言って微笑む。
ミリスは少し安心したように頷いた。
「……ありがとうございます」
トレイを手に取り、軽く食事を受け取る。
味は普通だった。
いや、むしろ“ちょうどいい”。
濃すぎず、薄すぎず、誰でも美味しいと感じるような味。
「どう?」
「口に合う?」
案内していた生徒が聞いてくる。
「ああ、問題ない」
短く答える。
「よかった」
その返事も、どこか整っていた。
食事を終えると、すぐに立ち上がる流れになる。
「次、図書室行く? この学園、資料多いから」
そのまま、また移動する。
図書室はとても広かった。
本棚が規則正しく並び、空間に無駄がない。机も椅子も同じ間隔で配置されている。
ミリスは近くの本に手を伸ばす。
「菌学基礎論……進化期待モデルβ……」
並んでいる本の多くが、似た分野だった。
「この学園、研究機関とも提携してるからね。その辺の資料はとても充実してるよ」
誰かが説明する。
「へえ……」
ミリスは頷き、少しだけ首を傾げる。
俺は棚を一瞥するだけで、それ以上は触れなかった。
どこを見ても、同じようなタイトルばかりだった。
しばらく見て回ると、また誰かが口を開く。
「他に気になる場所ある? それかもう寮に行こっか?」
俺は短く答える。
「任せる」
「じゃあ、寮行こっか」
その一言で、全員が、まったく同時に動いた。
俺とミリスはその流れに少し遅れてついていく。
寮へ向かう通路は、やけに長かった。
「こっちだよ」
案内の生徒が振り返る。
階段を下りると、空気が少しだけ変わった気がした。
「男子寮と女子寮は別なんだよね」
誰かが言う。
「うん、でも近いから安心だよ」
ミリスが小さく頷く。
「……安心、ですか」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
寮の前に着くと、扉はすでに開いていた。
中は広く、廊下が左右に伸びている。
「あれが男子寮」
「あれが女子寮ね」
軽い説明が続く。
「じゃあ、詳しい紹介はまた今度ね」
案内していた生徒が笑う。
ミリスは少しだけ間を置いてから、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
その言葉も、すぐに空気に溶ける。
「さあさあ、じゃあ行こ!」
気づけば、男女で左右に分かれていた。
それは誰かが決めたというより、最初からそうだったみたいだった。
「リンネさん……また……」
ミリスの不安そうな声は、少しだけ遅れて届いた。そのまま人の流れに飲まれ、視界からゆっくりと消えていく。
女子寮の廊下は、やけに静かだった。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに消えている。
「こっちだよ」
そう言われて、ミリスは小さく頷く。
部屋に入ると、数人の女子生徒がすでに待っていた。
「転校生の子だよね?」
「ミリスちゃん、だったよね?」
声は柔らかい。距離も近い。
「えっと……はい、ミリスです」
そう答えると、一人がすぐに笑う。
「やっぱり可愛いね」
「え……」
ミリスは一瞬固まる。
「声も落ち着いてるし」
「なんか、守ってあげたくなる感じ」
別の子がそう言って、くすくす笑う。
どう反応していいのか分からない。
「その制服も似合ってるよ。サイズぴったりだったでしょ?」
「……はい」
頷いた瞬間、また笑いが起きる。
「やっぱりそうだよね」
「その制服着やすいよね」
でも、すぐに別の話が重なる。
「ねえ、前の学校ってどんなとこだった?」
「友達多かった?」
「ここ来て不安じゃない?」
質問は一つずつだ。
さっきのように押しつぶす感じじゃない。
だから、答えられる。
「えっと……だいぶ昔、別の学校で……友達は……少なかったです」
そう言うと、一瞬だけ空気が変わった。
「そっか。じゃあここ、いい場所になるね」
誰かがそう言って、軽くうなずく。
その言葉が、少しだけ胸に残る。
「ミリスちゃん、声小さいね」
「でもちゃんと聞こえるから大丈夫」
「それも可愛いし」
「……はい」
気づけば、少しだけ肩の力が抜けていた。
別の子が隣に座る。
「緊張してる?」
「はい?少しだけ……」
「そっか。でもすぐ慣れるよ」
「ここ、そういう場所だから」
“そういう場所”。
その言い方が少しだけ引っかかったが、すぐに別の声が入ってくる。
「でもさ、ミリスちゃんさ。笑った方が絶対いいよ」
「え?」
「今ちょっと固いから」
「ほら、こうやって」
隣の子が軽く笑う。
それにつられるように、別の子も笑う。
気づけば、ミリスも少しだけ口元が緩んでいた。
「あ……」
自分でそれに驚く。
「ほら、今のいい感じ」
「……そう、ですか?」
「うん、可愛い」
また同じ言葉。
でも、さっきより少しだけ軽く聞こえる。
怖くないわけじゃないのに。
気づけば、会話は自然に続いていた。
好きな食べ物の話。
寮の部屋の話。
学園の授業の話。
どれも普通。
ただの雑談だ。
しばらくして、一人がふと小さく笑った。
「ミリスちゃんさ」
「はい?」
顔を上げる。
その子は、いつも通りの笑顔のまま、ほんの少しだけ声を落とした。
「もう、適応してきてるね」
ミリスには、その言葉が少しだけ聞こえにくかった。
「え?」
聞き返した時には、もう別の話に変わっていた。
「じゃあ次さ、寮のルール教えるね」
「うんうん、それ大事」
笑い声が重なる。
ミリスも、それにつられるように小さく笑った。
──気づけば、笑うことに迷いがなかった。もう、さっきの言葉は、頭の奥に沈んでいた。
「それでね、その授業ちょっと面白くてさ」
「わかる、それ先生おもろいよね」
「ミリスちゃんはどう思った?」
「えっと……ちょっと難しかったです」
そう答えると、また笑いが起きる。
「だよね」
「でもすぐ慣れると思うよ」
気づけば、別の話になっている。
「好きな食べ物とかある?」
「えっと……甘いものは好きです」
「それ分かる」
会話は、ずっと流れ続けている。どこにも止まらないまま、次へ次へと移っていく。
ミリスは少しだけ息をつく。
「ミリスちゃんさ」
「さっきより話しやすくなったよね」
「……そう、ですか?」
「うん」
そして、気づいた時には、窓の外は完全に夜になっていた。
「あれ……?」
ミリスが小さく呟く。
誰かが気づいたように言う。
「もう夜だね」
「ほんとだ、早いね」
驚きはない。
ただの、確認のようだった。
ミリスは少しだけ目を瞬かせる。
さっきまで、同じように笑っていたはずなのに。
ただ、気づけば夜だった。
「じゃあ今日はここまでにしよっか。明日またね」
自然に解散の流れになる。
ミリスは立ち上がる。
少しだけ遅れて。
「……おやすみなさい」
「おやすみ〜」
声が重なる。
俺は、夜の学園を歩いていた。ミリスと寮で別れた後、さっきとは違い、やさしく質問を浴びせられた。
――それが、一番気持ち悪かった。
俺が何も答えないと、何もなかったように次の話題に移る。そしてまた、同じことの繰り返しだ。
大勢がまるでバリケードのように俺を取り囲んだ。俺は隙をみて、抜け出した。
気がつけば日は沈み、窓の外は真っ暗になっていた。少し質問されていただけ。それなのにもう夜だった。
――なにか、変だ。
確信はないが、どこかそんな気がした。
歩みを止め、窓を見ると、窓に反射する自分の顔が見える。
「……未適応か、珍しい」
背後から声がした。
振り向くと、そこに小学生くらいの小さな女の子が立っていた。メガネをかけていて、髪はやけに乱れている。
「その状態は……観察対象じゃ」
手には、ガラスのフラスコに入った黒い液体が揺れていた。
「力か、信念か、それとも単なる例外か」
独り言のようで、こちらに向けているようでもある。
「……あんた、何だ」
俺が言うと、女の子は少しだけ笑う。
「妾はシズク。それ以上は、不必要じゃ」
そう言うと、シズクは踵を返す。
その揺れで、フラスコの黒い液体が動く。
「実験が成功するとよいがな」
止める間もなく、廊下の奥へ走っていく。
「待て……!」
声は届かない。
夜の静けさに、その足音だけが少しずつ薄れていった。
残ったのは暗闇だけだった。




