第二十五話
しばらく歩き、街に戻る。冷たい風が、先程までの記憶と共に吹き付ける。
朝の街は静かだ。
物音すらない。
だが、その静寂には“歪んだ正義”への恐怖が滲み出るようだった。
その時だ。
街の中央にある掲示板。
整った紙が並んでいる。
行政の告知、祭りの情報、学術報告。
その中の一枚が、視界に飛び込んでくる。
『総合専門研究科学園 研究中間成果報告――菌と精神状態の因果関係について』
「……ミリス、これ……」
「はい?」
ミリスが覗き込む。
「難しいですね……」
少しの間見ていたが、すぐに視線を外し、軽く笑いながら返す。
だが、俺は視線を離さない。
続きの文章が目に入る。
・精神状態の変化と微細な菌環境の相関
・菌の人体進化論と矛盾点
・感情反応と発酵型微生物の類似性
・人間社会、Virus共進化モデル図解
・今後の研究展開想定
――妙に引っかかる。
確証はない。
ただの研究報告の一つ。
それだけなのに。
「リンネさん、これ……」
ミリスが別の紙を指差す。
「この学園、近くにあるみたいです」
地図が載っている。
街の外れ。
少し離れた丘の上。
「……学園?」
眉をひそめる。
そこには簡潔な説明だけがあった。
・途中入学可
・生活支援あり
・菌学研究協力機関提携
掲示板の前に立ったまま、しばらく視線を動かさなかった。
「……行く」
短く、それだけ。
ミリスは一瞬きょとんとしてから、慌てて顔を上げる。
「えっ……学園に、ですか?」
「他にあるのか?」
風が一度、掲示板の紙を揺らす。
ミリスは少し言葉を選ぶように視線を落とす。
「でも、情報なら街でも……調べれば、きっと色々出てくるんじゃないですか……?」
「確かに、そうだ」
あっさり認める。
その素直さに、ミリスの方が少し戸惑う。
「じゃあ、わざわざ学園じゃなくても……」
「学園は研究機関だ」
静かな声だった。
「ここに書かれている内容も、ただの報告じゃない。菌と精神、論、共進化……どれも断片じゃなくて“具体的”だ」
ミリスは息を止める。
「……そこまで研究しているなら、弱点に触れている可能性がある。ヘヴィクムを、止めるための情報があるかもしれない」
ミリスの胸の奥がざわつく。
「……それって」
言いかけて、やめる。
俺は気づかないまま、地図の載った紙を見つめていた。
「行くぞ」
ミリスは一瞬だけ不安そうにし、すぐに視線を上げた。
「……はい」
小さく返事をして、後を追う。
朝の街は相変わらず静かで、二人の足音だけがやけに響いていた。
役所は、思っていたよりも大きかった。
淡い照明の下で、職員は淡々と書類をめくっている。
「……あの、この『総合専門研究科学園』に入学したいんですが」
ミリスがそう言うと、職員は一度だけ視線を上げて、すぐに頷いた。
「承知しました」
それだけだった。
ミリスは思わず口を開く。
「えっ……それだけ、ですか?」
職員は書類に目を戻したまま答える。
「手続きは、不要です」
「……不要、なんですか?」
「はい。入学は受理されました」
淡々とした声だった。
まるで最初から決まっていたことを確認するだけのように。
俺は何も言わず、そのまま立ち尽くす。
「では、明日指定の時間に学園へ向かってください」
職員は紙を一枚差し出した。
そこには、簡単な地図と日時だけが記されている。
「籍は、翌日には反映されます」
そして、書類を閉じてから、遅れて付け足すように淡々と言った。
「……2人とも、ご入学おめでとうございます」
外に出ると、ミリスが小さく息を吐いた。
「……なんか、変じゃないですか」
歩きながら答える。
「そうだな。でも、都合がいい」
宿へ向かう道では、誰ともすれ違わなかった。




