第十九話
木の影にいたのは、少年だった。
少年は、音を立てないようにしながら街へと走る。
誰にも見つからないように家へ戻る。
家の前の看板には、名前の『レイン』という文字が刻まれていた。
レインは、自分の部屋に入ると、そのまま椅子に崩れ込んだ。
心臓だけがまだ速い。
あの光が、頭の中から離れない。
白銀の装甲。一瞬で終わった戦い。
自分とはまるで別の生き物みたいな動き。
「……なんだよ、あれ」
小さく吐き捨てるように言う。
怖かったはずなのに、それ以上に目が離せなかった。あれが“強さ”なら、自分はあまりにも何も持っていない。
椅子の背にもたれたまま、天井を見上げる。
もし、あれが自分のものだったら。
そう思った瞬間だった。
部屋の空気が、急に重くなる。
音はない。
扉も開いていない。
なのに、“いる”という感覚だけが背中に貼りつく。
レインは勢いよく立ち上がり、振り返る。
部屋の隅。
そこに、誰かが立っていた。
「……え」
声が出ない。
こんな時間に、こんな場所に、人がいるはずがない。
レインは一歩下がる。
「だ、誰……」
影は答えない。
ただ、短く言った。
「欲しいか」
意味が分からない。
「何が……?」
その問いに返事はないまま、影は机に小さな瓶を置いた。
中で、黒い何かがわずかに揺れている。液体のようで、そうじゃない。見ているだけで気分が悪くなるような違和感。
「これは、力だ」
声は静かだった。
「使えば、“さっきの”に近づく」
レインの喉がひくりと動く。
「……さっきの……?」
あの白銀の鎧のことかと思い、背中が冷える。
「どう使うかは、お前が決めろ」
次の瞬間。
影はもういなかった。
扉も開いていない。窓も動いていない。
最初から“いなかった”みたいに。
ただ、瓶だけがそこに残される。
「……は?」
レインはしばらく動けなかった。
やっとのことで瓶に手を伸ばす。
冷たい。
中の何かが、ほんのわずかにこちらを向いた。
――気がした。
レインは思わず手を引いた。
「……っ」
今、動いた。
いや、気のせいかもしれない。そう思おうとしても、視線だけが瓶に引き寄せられる。
黒いそれは、ただ揺れているだけだ。
だが――
見られている気がする。
喉が乾く。
もう一度、手を伸ばしかけて……止めた。
「……バカか、俺」
小さく吐き捨てる。
こんな得体の知れないもの、普通なら触るべきじゃない。さっきのやつも、どう考えてもまともじゃなかった。
なのに。
視線が離れない。
「……力、か」
ぽつりと呟く。
あの白銀の装甲。
一瞬で終わった戦い。
自分には何もない。
だから――
指先が、もう一度だけ瓶に触れる。
その瞬間。
ぞわり、と。
指先から何かが這い上がるような感覚が走った。
「っ!?」
反射的に手を離す。
瓶は机の上で、かすかに揺れた。
今のは、絶対に気のせいじゃない。
皮膚の奥に、何かが入り込もうとしたような
「……なんなんだよ、これ……」
息が浅くなる。
怖い。
はっきりとそう思った。
けど、それでも。
ほんの一瞬だけ、頭をよぎったものがある。
――これを使えば。
あの、光に近づける。
「……」
レインは、ゆっくりと瓶から目を逸らした。
これ以上見ていたら、きっと手を伸ばしてしまう。
椅子に体を預け、そのまま目を閉じる。
だが、眠れるはずもなかった。
頭の中に焼き付いているのは、あの光と。
机の上にある、黒い瓶。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
やがて、窓の外がわずかに白み始める。
夜が、終わろうとしていた。
レインはゆっくりと目を開ける。
体は重い。
ほとんど眠れていない。
だが――
視線は、迷わず机へ向いた。
瓶は、そこにある。
昨夜と何も変わらないはずなのに。
なぜか、今は。
手を伸ばせば届く距離に、“答え”が置かれているように見えた。
「……」
レインは立ち上がる。
ゆっくりと、瓶へ近づく。
そして――
指先で、それを掴んだ。
冷たい感触。
だが今度は、手を離さなかった。
ほんのわずかに、息を吸う。
「……やる、か」
小さく呟く。
怖さが消えたわけじゃない。
それでも。
何も持っていないままよりは、ましだと思った。
レインは瓶を握りしめたまま、窓の外を見る。
朝の光が、街を照らし始めている。
――そして
ゆっくりと、口を開いた。
「……変身」
小さく、呟く。
次の瞬間。
体の奥から、何かが弾けた。
黒い何かが溢れる。
――違う。
昨日の白銀じゃ、ない。
全身は、黒い装甲に覆われる。
その隙間からは、赤い光が滲むように漏れていた。
胸部の中心には、心臓のように脈打ち、少しヒビの入った赤い核が埋め込まれている。
ドクン、と。
微かに、鼓動のような音を刻んでいた。
肩の装甲は鋭く張り出し、赤い棘のように尖っている。腕や脚の各所にも、同じような突起が走っている。
その奥で、目を覆うバイザーが光る。
赤く。
鈍く燃えるように。
安定してはいない。揺らぎ、脈打ち、今にも暴れ出しそうな不規則な光。
手に握られているのは、重厚な武器。
剣に似ているが、刃は厚く、鋭さよりも叩き斬ることを前提とした形状をしている。
光は纏っていない。
代わりに、黒と赤の境界が歪み、刃の周囲の空気がわずかに揺らいでいた。まるで、闇を纏うかのように。
「っ……!」
熱い。
いや、違う。
熱いのに、冷たい。
矛盾した感覚が、全身を走る。
痛みはない。だが、血ではない何かが体を回る不快感だけが微かに残る。
だが――
力が、ある。
指を動かすだけで、空気が裂けるような錯覚。踏み込めば、地面が軽く沈む感覚。
「……なんだよ、これ」
呟きとは裏腹に、口元がわずかに歪む。
怖い。
それなのになぜか
――笑いそうになる。
その時だった。
「た、助けてくれぇ!!」
外から、叫び声が響く。
レインは顔を上げる。
考えるより先に、体が動いた。
窓を蹴り破るようにして外へ飛び出す。
軽い。
信じられないほど。まるで、自分の体じゃないかのようだ。着地の衝撃も、ほとんど感じない。
通りの中央で、人が倒れている。
その周囲を囲む影が三つ。
――ブラックゴブリン。
前に見た時は、ただ遠くから見ることしかできなかった存在。
だが今は。
「……へえ」
自然と、言葉が漏れる。
怖くない。
それどころか。
“取るに足らない”とさえ思った。
ブラックゴブリンの一体がこちらに気づき、唸り声を上げる。
そのまま突っ込んでくる。
レインは昨日のことを思い出す。
動かない。
ぎりぎりまで引きつけて――
踏み込む。
視界が一瞬で詰まる。
気づいた時には、剣が振り抜かれていた。
鈍い音。
ブラックゴブリンの体が、横へ弾け飛ぶ。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
今の一撃で。
あれだけ怖かった存在が、簡単に吹き飛んだ。
吹き飛んだ方に視線を向ける。壁に勢いよくぶつかり、ピクリとも動かない。
――たった一撃で。
残りの二体が一斉に飛びかかる。
レインは反射的に体を捻る。
避ける。
いや――勝手に避けている。
そのまま、腕が動く。
一体の首を左手で掴み、地面に叩きつける。骨の砕ける音が響く。
もう一体は、回し蹴りをする。
それだけで、ブラックゴブリンは足が当たった部分から2つに割れている。
静寂。
ほんの数秒。
それだけで、終わっていた。
「……これだけ、か?」
呟く。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
さっき感じた“怖さ”は、もう薄れている。
代わりにあるのは――
高揚感。
「す、すげぇ……」
「なんだ、あれ!?」
「人間なのか……?」
「助かった……!」
周囲から、声が上がる。倒れていた人も、震えながらこちらを見る。
その視線が、全部自分に向く。
レインは、ゆっくりと振り返る。
「……俺は」
言葉を区切る。
昨夜見た姿が、頭に浮かぶ。
あの白銀の背中。
あの、迷いのない動き。
それをなぞるように。
「ライダー……レインだ」
言い切る。
ほんの少しだけ、胸を張る。
「レイン様……!」
「ありがとう……!」
声が、増える。
さっきまでの恐怖が嘘みたいに、全部が自分を見ている。
その中で。
ふと、思い出す。
――あいつは、どうしてた。
戦いが終わったあと。
あの白銀は――
「……」
一瞬だけ、考える。
そして。
レインは背を向けた。
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
ゆっくりと。
あくまで、余裕があるように。
角を曲がる。
建物の影に隠れる。
視線が切れた瞬間。
「……っ、は」
小さく息を吐く。
足が、少し震えている。
心臓がうるさい。
それでも。
口元は、抑えきれずに歪んでいた。
「……やべえな、これ」
ぽつりと呟く。
握った拳に、まだ力が残っている気がした。
「っ!?」
その時、不快感がいきなり爆増する。
光が歪む。
胸の核が大きく脈打つ。
「か、解除!」
大きな声で叫ぶ。
その瞬間、俺は元の姿に戻っていた。
さっきまでの不快感も、夢だったかのように消え失せる。
「今のは……?」
その時――
「よくやった」
どこからか声が聞こえる。
振り返ると、そこには昨日の夜、力をくれた“あいつ”が立っていた。
「それでいい」
俺は静かに言う。
「あれは、本当に俺なのか……?」
だが、それには答えずに、続ける。
「救った。それだけだ」
奴が一歩、近づく。
「過程など、どうでもいい」
それだけ言うと、俺が瞬きをした瞬間、もうそこには何も残っていなかった。
元に戻ったはずなのに
胸の奥で、何かがまだ、微かに脈打っている気がした。




