第十六話
細い赤が、エレクトの首筋を走った
「やめろ!」
エレクトは震えた声で言う。
「私は……間違えました。もう、終わりなんです。私は……死んで償う。こんな命で足りるなんて……思いませんが……」
「ちがう! それは償いじゃない! ただ逃げてるだけだ! お前が死んでも何も解決しない! その罪は、生きて償え!」
ナイフが、乾いた音を立てて床に落ちた。
「私は……どうすれば……!」
支えを失ったように、エレクトは膝をついた。
「正解なんて、最初からない……だから、自分で決めろ。自分が許せなくてもいい――償い続けろ」
誰も、すぐには動けなかった。
俺は何も言わなかった。
言うべきことは、もう言った。
静寂の中で、ただ時間だけが流れていく。
しばらくして、小さな音がした。
エレクトが、ゆっくりと顔を上げて立ち上がっていた。
「……全て、街の人々に話して来ます。そして、私の取るべき行動をしてきます」
俺は小さく頷く。
「……自分で決めたなら、行け、逃げるなよ」
エレクトは一度だけ俯き、何かを噛み締めるように息を吐いた。
そして、ゆっくりと扉へ向かって歩き出す。
「……ありがとうございました。本当に……」
その一言を残し、エレクトは部屋を後にする。その背中には、もう迷いはなかった。あるのは、逃げないと決めた人間の重さだけだった。
扉が閉まる音が、やけに遠く響いた。
しばらくして――
「……あの……これで、よかったんでしょうか」
その声は小さく、不安を隠しきれていなかった。
俺は少しだけ目を伏せる。
「……さあな」
短く答える。
「正解かどうかなんて、誰にもわからない……あとは、信じるしかない」
ミリスは黙ったまま、さっきエレクトがいた場所を見る。
「……でも、あの人、前、向いてました」
その言葉に、俺はわずかに息を吐く。
「……ああ。少なくとも、もう“逃げて”はない」
しばらくの沈黙のあと――
「……行くぞ。こうしている間にも、ヘヴィクムは動いている」
俺は背を向ける。
「……はい」
ミリスは一度だけ振り返り――
すぐに、後を追った。
長い通路を戻る。
来たときと同じはずなのに、空気が違っていた。
足音が、静かに響く。
誰も、振り返らなかった。
やがて、通路は途切れ、大広間へ出る。
信者たちは何も知らない顔で祈りを捧げていた。
――さっきまで、頂点にいた人間が崩れたことなど、知らないまま。
俺は視線を逸らし、そのまま歩く。
重い扉の前に立ち、押し開ける。
外の光が、差し込んだ。
ほんの一瞬だけ、目が眩む。
肺の奥に溜まっていた重さが、抜けた。
振り返らない。
――そのまま、一歩踏み出した。
教会を出ると、街の空気が肌にまとわりついた。
さっきまでの息苦しさとは違う。だが、どこか――歪んでいる。
通りには、いつも通り人は歩いているのに、妙に静かだった。
「……見てください」
ミリスが小さく呟く。
視線の先。
一人の男が、壁にもたれかかるように立っていた。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
その首元には――黒い斑点が、はっきりと浮かび上がっている。
「おお……」
「祝福だ……」
近くにいた人間たちが、どこか陶酔したような声を漏らす。
「選ばれたんだ……」
「羨ましい……」
その言葉に、男は苦しそうに咳き込みながら――それでも、口元は笑った。
“祝福”だと、信じているからだ。
自分の体が壊れていることすら、理解せずに。
俺は視線を逸らした。
あちこちに、同じような人間がいる。
ふらつきながら歩く者。
壁に手をついて動けない者。
それでも、誰も疑わない。
それが“正しい”と、思い込んで、笑う。
――救いだと、信じて。
「……もうすぐ、全部崩れる」
俺は低く呟く。
教祖が真実を話せば、この光景は一瞬でひっくり返る。
祝福は、ただの“菌”だったと知る。
歓喜は、恐怖に変わる。
信仰は、音を立てて崩れる。
「……怖いです」
ミリスの声が、かすかに震える。
「信じてたものが、全部違うなんて……」
「だろうな」
短く返す。
だが、それでも。
「それでも、知らないままの方がいいなんてことはない」
俺は前を見る。
このまま進めば、いずれ――
「ヘヴィクムを殺す」
口に出すと、やけに静かに響いた。
あいつを殺さない限り、この“祝福”は終わらない。
どれだけ救っても――根を断たなければ、意味がない。
ミリスは、小さく頷く。
「……はい」
その声は、もう迷っていなかった。
俺は歩き出す。
ざわめく街を抜け、その先へ。
背後では、まだ誰かが笑っている。
自分に何が起こっているかも知らずに。
――時間は、もう多くはない。




