第十一話
腐ったような気配。空気が重く沈む。
ミリスが息を呑む。
「……うそ……」
喉が乾く。視線が逸らせない。
あり得ない。ここにいるはずがない。
だが、“記憶”がそれを否定しない。
目の前の存在は、あまりにも“それ”そのままだった。
ヘヴィクムは動かない。
ただ、ゆっくりと口を開く。
「……また抵抗するのか」
低く、湿った声。
「懲りないな」
リンネの肩がわずかに揺れる。
「守れなかったくせに」
「――っ」
言葉が突き刺さる。
「街も、人も、全部。お前が未熟で、弱かったからだ」
足が止まる。呼吸が浅くなる。
思い出す。
崩れていく街。
消えていく声。
拳が震える。
「……やめろ」
小さく、掠れた声。
ヘヴィクムは一歩も動かない。
ただ言葉だけを落とす。
「そして今も、何も変わっていない。お前は何も進化していない」
「……周りが変わっただけだ。相手が変わっても。仲間ができても。世界が変わっても。結果は、同じだ」
膝が、地面に落ちた。
「……っ……!」
ミリスが叫ぶ。
「リンネさん!」
返事はない。
歯を食いしばる音だけが小さく響く。
――違う。
ゆっくりと、俺は顔を上げる。
「……違う。それは、あの時の俺だ。絶望で、立ち止まっていた俺だ」
「でも今は違う。何も変わってないんじゃない。――もう、逃げない」
一歩、踏み出す。
剣を握る手に力がこもる。
ヘヴィクムは動かない。
ただ、見ている。
俺は踏み込む。
剣を振るう。
――手応えがない。
空を切る感覚。
次の瞬間、ヘヴィクムの体が霧のように崩れた。
静かに、消える。
「……は……?」
リンネの動きが止まる。
後ろから、笑い声が響いた。
「クックック……」
ゼルクだ。
「どうした? もう終わりか?」
リンネが振り向く。
「……お前」
ゼルクは肩をすくめる。
「勘違いするな。今のは“殺すため”ではない」
懐中時計――
『メモリア・ドミナス』がかすかに揺れる。
「見せてやっただけだ」
にやりと不気味に笑う。
「貴様がどれだけ脆いのかをな」
拳を強く握る。
「……っ」
その時だった。
まだ消えきっていなかった黒い霧が、再び濃くなる。
「な……?」
霧が集まり、ねじれ、形を作る。そしてそこにはーー
地面を這う2mの巨体
ソーラーソードをも弾いた黒い鱗。
赤と黄色のオッドアイ。
水色に光る牙
そこにいたのは、洞窟で戦ったあの、カオスフレイムクロコだった。
「――っ!!」
目を見開き、体が一瞬で戦闘態勢に入る。
あの圧。あの力。
全身が覚えている。
「グオオオ」
奴が低く唸る。
地面を爪が抉る。
ミリスが震える声で言う。
「まさか……これも……」
答えない。答えられない。
目の前のそれが何なのか。
ただ一つ確かなのは――
こいつは、甘く見れば一瞬で死ぬ相手だということ。
呼吸を整える。心臓が高鳴り、手のひらに微かな汗を感じながら、俺は低く呟いた。
「……来い」
その瞬間、カオスフレイムクロコの口から炎が噴き出す。熱風と光で目が痛む。
「ソーラーシールド!」
咄嗟に盾を出す。だがーー
盾が溶け、指先に熱さが伝わる。
「!?」
反射的に盾を投げ捨て、横に飛ぶ。
やはりこいつは強い。だがーー
俺は距離を取り、両腕を前に出した。両腕に神々しい光が集まっていく。
「くらえ!ツインサンレーザー!!」
そう、こいつは一度は倒した相手だ。弱点を知っている今、俺の敵ではない。
両腕から2つの光線が奴の目に真っ直ぐ発射される。
「グオアアアア!」
光は目に直撃し、苦しんでいる。
カオスフレイムクロコの体が、ふっと黒い霧に崩れた。
勝利の感覚が宙に浮く。だが霧が揺れる。まとまる。
そして、何事もなかったかのように、再び“あれ”が立っていた。
「……なんで、だよ」
思わず声が漏れる。
前は、これで終わった。確実に、倒した。
なのに。
目を撃ち抜いたはずなのに。
なんで倒れてない?
一歩、後ろに下がる。
その瞬間、脳裏に過去がよぎる。
鱗にソーラーソードを叩きつけても、傷一つつかなかったあの時の絶望。
確信が、揺らぐ。
“弱点を知っているから勝てる” はずだった。
その前提が、崩れさっていく。
次の瞬間
「グゥアアアア!」
咆哮とともに、カオスフレイムクロコが地面を蹴る。
速い。
来る。
まずいーー
体が動くより先に、心が一瞬止まる。怖い。
“勝てないかもしれない”
その感情が、はっきりと形になる。
「……っ」
歯を食いしばる。
怖いのは、わかってる。
通じないかもしれないのも、わかってる。
それでも。
ここで引いたら、終わりだ。
心の奥で、何かが踏みとどまる。
「……立ち向かう……! かかってこい!」
その瞬間。
空気が、変わった。
黒い霧がわずかに揺らぎ、輪郭が崩れる。
そしてーー炎の熱が、消える。
地面の焦げた匂いも、音も、圧迫感も全部がなくなる。
「……は?」
カオスフレイムクロコの姿が崩れる。
黒い霧に戻り、静かに、あっさりと。
抵抗もなく。
咆哮もなく。
ただ、消えた。
「……なんだよ……今の」
さっきまで確かにあったはずの“恐怖”が、嘘みたいに消えている。
怖くない。
さっきまで、あれほど――
「……まさか……」
ゆっくりと、理解が追いつく。
思い出す。
通じなかった攻撃。
勝てなかった感触。
あの時の、自分の感情。
「……俺が、作ってたのか」
拳を握る。
「……敵は……俺の心か」




