夏祭り、屋台と花火と、戦神ワルキューレ 下
街でも一番大きい公園である。
公衆トイレも大きく清潔で、入ったときの不快感はない。
脅されに脅された朱里はまるでアジトに潜入するエージェントのように慎重に侵入したが、ひとまず誰もいないことにほっと息をなでおろした。
広い室内に洗面所。端に女子用のクローゼットが五つ立ち並ぶ。見た感じではなんの変哲もないが、なにか仕掛けがあるのだろうか……。
……あるわけないのにそう思ってしまう朱里がドアの一つに聞き耳を立てたりしてみている。
それでも信用できず、すべてのドアに聞き耳を立てる朱里の姿は、もし別の誰かが入ってきたらそれこそ不審人物に思われてしまうだろう。
ともあれ誰もいそうにはない。しかし音を立てると何かを呼び込むかもしれないので、とりあえず静かにドアの一つを開けてみた。
大丈夫。何もない。無音の空間で、朱里はトイレの一つに滑り込む。
ちなみに彼女が着ている袴というのはいわゆる行灯袴であり、扱いはスカートと似た形で捌けるので、トイレで面倒な脱着は必要ない。馴れた手つきでたくし上げて便座に座ってほっと一息。……朱里の不安は排泄と共に霧散していった。
いくらなんでも今から男が女子トイレに入るのであれば、櫻花が咎めるだろう。彼女がどこまで冗談で本気だかわからないが、さすがにわざわざ自分のことを陥れる裏切りはすまい。
袴なので多少余計に身なりを整えて、着崩れがないかを確認する朱里。焦って出てきたのかと思われて笑われるのはいやだった。
そして完全に油断してドアを開け放ったところで、
「にゃあああああああああああ!!!!!」
朱里は大声を上げた。
女が立っている。
青くもない、血まみれでもない、壁をすり抜けて迫ってきたわけでもない。ただの女が立っているだけなのに朱里がそんなに驚いたのは、彼女が逆に直立不動のまま、部屋の真ん中でじっとこちらを見つめたまま立っていたからだ。
上半身はスポーツブラのように胸だけを隠した赤い生地で、浅黒い肌を晒した細いウエストラインはすっとしまっている。下は長くて白いフレアスカート。
長身で顔立ちは整い美しいが、先ほどは気配すらなかったそんな女が、ピクリともせず瞬きもしないで洗面所の前に立ちはだかってこちらを見下ろしていたら……。
バタン!!
朱里は思わずドアを閉めてしまった。そんなマネキンのような女と、目が合ってしまったのである。
櫻花に脅されながらトイレにきたが、まさかそっちの怖さか。予想すらしない展開に朱里はどうしたらいいのかわからない。
声を上げていいものだろうか。しかし声を上げれば相手は逆上するかもしれない。
息を潜めて相手の出方を伺う朱里。
無音のトイレで、コツ……コツ……という小さな足音が響く。明らかに近づいてきてる。そして間違いなく自分のトイレのドアの目の前で止まった。
ちなみにこれが痴漢の場合、こういう際に声が出せない女性の方が被害にあう率が高いらしい。相手も声が上がったら逃げ、上がらなかったらカモにする算段を立てるらしいから、声を上げるほうが対策としてはよさそうだ。
朱里はというと、声の届くところに櫻花がいることがわかっている。声は上げやすかった。勇気を振り絞る。
「櫻花さん!!!!!!」
これでドアをドカドカ叩かれ始めたら本当に恐怖だが、相手は静かだ。
いや、だからなおさら怖い。ドアを通して彼女の吐息を感じる。その呼気がドアをすり抜けて頬をくすぐったかのように思えてとにかく怖い。
「櫻花さーーーーーーん!!!!!」
しかし、声が届いたであろう時間を加味しても、トイレは静寂に包まれたままだ。
(目の前にいるの……?ドアを開けたら、目の前でこっちを見下ろしているの……?)
そう思うと朱里の背筋が凍りつく。
どうしたらいい?まさか「くまのちゅーやん」じゃないから踏み込んでこないのだろうか。……思い至ってさらに勇気を振り絞る朱里。この際変人だと思われても構わない。
「くまのちゅーやん!!! くまのちゅーーーやーーーん!!!!」
……しかし櫻花の気配がトイレを満たしてくれることはない。
「出てきなさい」
ドアの向こうで声がした。聞き慣れない女の声。その距離感からしても、間違いなくさっきのマネキンである。
「早く出ないと破壊します」
「え……?」
「開け方がわからないのです。開かないのなら破壊します」
「ぇぇ……?」
消え入りそうな朱里の声。
「早くして。わたくし、このままだとワルキューレになってしまいそうです」
「……ワルキューレ?」
「そうです。悪の心に支配された伝説の戦神です」
「……」
朱里の中の恐ろしさがまた、方向性を変えた。
痴漢ではない。マネキンではない。しかし、この暑さで頭がやられた人かもしれない。
「ほら! 早くして!! わたくしが二十三時まで起きてるような悪になってもいいのですか!!」
「……」
「もっと悪いことも考えてしまいますよ? 悪事を一億万個も思いついてしまうでしょう。とにかく開けなさい」
「くまのちゅーーやーーーーん!!!!」
よくわからないがドアの前の女は変人だ。言う通りにしたらなにをされるかわかったものではない。必死に櫻花を呼ぶ朱里。
しかし女にしてみれば、トイレの中で「くまのちゅーやん」を連発している朱里こそ変人である。
「変人のフリをして切り抜けようとしてもダメです。言っておきますが今、この空間は外界から遮断されています。観念しなさい」
「……」
外界から遮断……?
しかしその意味を考えている余地はなかった。
「ああ!! ワルキューレになってしまう!!」
と叫んだ女の声と共に、目の前のドアに黒い線が入る。
「え!?」
亀裂だった。思うのもつかの間、斜めに入ったその線を境に下の部分が支えを失ってガランと朱里の方に倒れ掛かる。
「ひゃ!!!!」
便座の脇に後ずさって危うくそれを避けるが、部屋が狭いため、すぐに彼女の逃げ道を壁が阻んだ。切れ目の向こうには何かを振り下ろした格好の女の身体がある。
「まってまってまってまって!!」
"血相が変わる"とは今の朱里を指すのか。斬られたドアの下半分の空間をくぐって入ってきた女の右手には、まるでファンタジー世界から迷い込んできたのかと思わんばかりの両刃の長剣が握られていた。
「我が名はワルキューレ。質問に答えなさい」
狭い部屋には女とドアの下半分が引っかかってる便座、壁に張り付いている朱里で、すし詰め状態になっている。しかしその窮屈を、女は構わないようだ。ギラリと光る長剣を無造作に下ろしているものだから、朱里は足を少しでも動かそうものなら刃が当たってしまいそうになっている。気が気ではない。
「まって! わたしが何かしましたか!?」
「強いて言うならわたくしの中のワルキューレを呼び起こしてしまったことでしょうか」
「ワルキューレ……」
戦の女神、ワルキューレ……朱里も名前だけは知っている。
しかし常識的に考えて、日本の小さな街の公衆トイレの同じクローゼットの中の便器の前に、そんな大それた存在がいるわけがない。
「ああああああ!!!!!」
考えている朱里の前でワルキューレが再び叫ぶ。彼女は便座の上にある流すレバーを倒し、それをトイレットペーパーの芯で固定してしまった。
「ふふ、これで未来永劫水は流れたままです」
「なんてひどいことを……!」
くだらないが、いたずらとしては悪質である。
「ワルキューレですからね」
「ワルキューレっていい女神じゃないんですか……?」
「周りの人次第です。あなたはわたくしをワルキューレにしてしまいました」
「ご、ごめんなさい!」
彼女が本物でも偽者でも、とりあえずここを切り抜けなければならない、という気持ちになった。なにせ相手は刃物を持った狂人である。感情を逆なですればどうなるかわかったものじゃない。
「わたしが悪かったです。どうすればいいですか……?」
「こうなったらわたくしが気が済むまで止まりません」
「ぇぇ……?」
いつもいつも変なのが出てくるが、この女は別の意味で始末が悪い。
「ああ……あなた、紐靴を履いてますね」
「は……はい」
「ちょっと見せなさい」
狭いところでかがむ自称ワルキューレ。袴から覗いている朱里の靴はベージュの運動靴である。
「ふふ、硬結びに変えさせてもらいました」
「ええ!?」
何かごそごそしてると思ったら、蝶々結びがされていた紐靴が、思い切り硬結びに変えられている。どんな怪力だったのか中央の玉の部分は限りなく小さく、もはや紐を切らないと靴が脱げないかもしれない。
「な、なんてひどいことを!!」
「我が名はワルキューレ。悪の心に支配された伝説の軍神です」
「……」
朱里は唖然としたが、これ以上何かをされる前に何とかしないといけない。朱里は必死に、思いつくことを吐き出してみることにした。
「な、なんでワルキューレさんは日本なんかにいるんですか!?」
「仕事です」
「仕事……?」
「十四日後に、この日本という国に巨大な隕石が落ちてきます」
「へ……?」
自称ワルキューレが立ち上がる。長身の彼女が両手の届く位置で立っていると、胸しか見えない。ちなみに豊満な胸だけは確かに女神級であった。
「落ちれば地球の地殻バランスが一気に変わってしまうほど大掛かりなものです。わたくしはそれを阻止しに来ました」
「悪い神なのにいいことをするんですね」
いつも櫻花のツッコミ役に回っているせいで、ついそんなことを口走ってしまう。
「わたくしはなにも、いつもいつもワルキューレというわけではないのです」
いいながら、悪い自分を思い出したかのように、スカートのポケットからペンとメモ用紙を取り出して「故障中」と書き込み、別のトイレのドアに貼りつける。
「ふふ、これでしばらく誰もあっちのトイレを使えませんね」
「外国の神様なのに日本語が書けるんですね」
「そりゃ、神ですから」
聞いてみたがどうでもいい。とりあえずここを無傷で切り抜ければなんでもいい気がした。いくつかのやりとりでだんだん落ち着いてきた朱里は続ける。
「それで……質問というのは……?」
会話の一番初めを朱里は覚えていた。ワルキューレの方が忘れていたらしい。
「あ、そうです。質問に答えなさい」
「はい」
「わたくしは隕石の接近を阻止しようと日本に降り立ちました。するとどうでしょう。なにやら街はにぎやかではありませんか」
「お祭りですからね」
「お祭り……お祭りというんですね。楽しそうなのでわたくしもすこし参加させていただきたいと思ったのです」
「はい」
「そしたら!!!」
急に目を見開くワルキューレ。朱里も、目の前にいるのが狂人であることを忘れていたが、その血走った目を見て再び恐怖に縮み上がった。
「なにをするにも"円"という日本の通貨が必要じゃありませんか!!!」
「はい! ごめんなさい!!」
「わたくしは悩みました。誰かに円をもらえる場所を聞きたくても、わたくしは人見知りなのです。人が大勢いるところではどうしても誰にも聞けず、困り果てていたところで、一人でこの部屋に入ったあなたを見つけたのです! わたくし、あなたが一人だったので、うまく話しかけることができました!」
「……」
いや、ぜんぜんうまくない。この距離感は何とかならないのだろうか。
「わたくし、ようやく質問できます。答えなさい!」
「は、はい」
「円はどこでもらえるんですか!!」
「……」
返答に困る朱里。
「答えないとわたくしの中のワルキューレが、より覚醒してしまいます!!」
「まってまってまってまって」
これ以上面倒なことはしないでほしい。しかしワルキューレは目を血走らせてどんどんヒートアップしていく。
「だいたいわたくし、もう二十一時だというのにまだ起きています! なんて悪いんでしょう!! 今日は本当に二十三時まで起きてしまうかもしれない!!」
「はい!」
「このままでは、ポケットに入れたまま洗濯しちゃってカチカチに固まっちゃったメモ用紙を、その辺の路上に捨ててしまうかもしれません!!」
「わかりました!」
なんかもう、わかった。とりあえず朱里は彼女を止めると袖から財布を出す。
「円は、普通はどこでももらえないんです。でも、今日は特別、わたしが少し差し上げますから、これで遊んできてください!」
四千円。朱里の残りの財産の九十八パーセントである。それを見た自称ワルキューレは目を輝かせた。
「ホントですか!?」
「はい。お祭りはあと二時間で終わってしまいますけど、楽しんできてください!」
するとワルキューレ、一転憑き物が落ちたような柔らかい表情を浮かべ、にこりと微笑む。
「まぁ……なんていい人なんでしょう。心が洗われるようです……」
彼女はトイレのレバーに引っ掛けたトイレットペーパーの芯を取り外した。
「わたくし、あなたの清い心のおかげでヨイキューレが戻ってきました」
「ええ?」
ヨイキューレ……?
急に名前がよくわからなくなった自称女神を見上げ、おそるおそる言葉を発す。
「ワルキューレのワルって、悪いっていう意味でのワルですか……?」
「ええ、そうですけど」
「ええええ!?」
驚く朱里に、きょとん、の女神。
「え、だって、ワルイージだってワルは悪いって意味でしょう……?」
何の話だ。
「外国の神様なのに、ヨイ、ワルイなんですか……?」
「ワルイージだって外国人でしょう?」
何の話なんだ。
「じゃあ、今は、ヨイキューレさんなんですか……?」
「そうです。我が名はヨイキューレ。善の心に支配された伝説の軍神です」
聞いたことない。
まぁしかし、ワルキューレの方があんなにしょうもない個性をいつも発揮しているのだとしたら、そちらの名が有名になるのもうなずける。
「あなたのおかげで隕石を迎え撃つ勇気も湧いてきました。是非とも成功を祈っていてくださいね」
「は、はい。がんばってください」
笑顔と、ほのかに甘い匂いを残してフワリときびすを返し、トイレを後にするヨイキューレ。確かにその様は人間には到底持ち得ない、完璧な美しさを備えてはいた。
「あははははははははは!!!!」
トイレの外、いまだ人の流れがやまない商店街の端っこで、ケタケタ笑いが止まらないのは櫻花だ。
「それで? 四千円カツアゲされたってわけね?」
「だってぇ、櫻花さんが全然助けに来てくれないから……」
ぷぅっと頬を膨らませて櫻花を睨みつける朱里。
「いや、でもね、朱里がトイレから出てくるまで、ホントに一分くらいしか経ってないんだよ?」
それが、不思議の続きであった。
櫻花はずっとトイレの前で待っていたし、朱里が出てくるまで他に誰も入っていないことは確認している。
トイレに入り直してみればドアも壊れていないし、彼女の形跡を匂わせるものも何も残ってはいなかった。朱里の身の回りを除いては……。
財布はすっからかん。運動靴の紐は取り返しのつかない硬結びに……。
「たぶんね、お祭りに引かれて出てきた座敷童子系の神様の一人だと思うよ。だいたいがいたずら好きだからね。朱里は巫女の衣装だし、頼れるって思ったんじゃない?」
八百万信仰の巫女櫻花だ。彼女がそう言えば朱里もなんとなく納得した。
だってあまりにやることなすこと幼すぎた。あれが伝説の軍神では、なんというか……あまりにザンネンというか……。
朱里は小さなため息をつき、キッパリ忘れることにした。
「あら、ずいぶんオトナじゃん」
「いつもにくらべたら今日なんて全然マシな方ですから……」
「いいんじゃない? 神様にお布施したんだもん。いいこともあるわよ」
夏祭り。思えば神を祀る行事である。神が隣で遊んでいてもなんの不思議もない。
空を見上げれば、満天に浮かぶ星々が、祭囃子を聞きながらキラキラと瞬いていた。
……しかしそれから数週間がたって、朱里はとあるニュースに釘付けになる。
パジャマ姿で歯磨きをしながら、寝ぼけマナコでテレビを眺めた朝のことだ。
女性のニュースキャスターが読み上げる記事に、朱里は呆然となった。
<現在ピークを迎えているペルセウス座流星群ですが、その中で特に大きなものの一つが、大気圏で燃え尽きずに地球に落下する可能性があると見られていた問題について、NASAは日本時間の昨夜未明、記者会見を行いました。
それによると、衝突すれば全世界に深刻な影響を及ぼすとされた隕石は、一直線に地球に向かっていたものの、大気圏に突入する直前で謎の進路変更を遂げたため、衝突は完全に回避された。当局は引き続きその件に対して調査を行ってゆく。とのことでした>
偶然か?……朱里の脳裏に浅黒い肌の美人の姿が思い浮かぶ。
結局どんな名前で呼ぶのが正しいかすらわからない女神だが、あれが本当に伝説の軍神だったとしたら……。
今となっては確かめる術もない。




