娘が幸せそうで俺は・・・・泣いちゃだめだ・・・
娘が結婚してから、初めて。
マリアンヌが夫を連れて帰ってきた。
ネコスキー男爵家の当主として、当然きちんと迎えなければならない。だが、朝からどうにも落ち着かなかった。
「伯爵様が……来るのか」
ルードリッヒ・フェルネ伯爵。
自分より若い。それなのに、自分より遥かに高い爵位を持つ人物だ。そんな相手が、自分の娘の夫としてやってくる。
正直に言えば、今でも少し緊張する。
マリアンヌが嫁いだばかりの頃は、もっとだった。
なぜ、伯爵がうちの娘を選んだのか。何か理由があるのではないか。男爵家の娘を妻にすることで、別の目的があるのではないか。
そんなことばかり考えていた。
何より、もしマリアンヌが向こうで不幸になっていたら。
そう考えると、父親としては怖かった。
「あなた」
妻が隣から声をかけてくる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「そうは言ってもな……」
「マリアンヌが嬉しそうに帰ってくるんですもの。きっと大丈夫です」
「……そうだな」
妻は昔からのんびりしている。心配していないわけではない。ただ、娘の顔を見れば分かると思っているのだろう。
そして。
「来ました!」
使用人から声がかかった。
俺は思わず背筋を伸ばし、玄関へ向かった。
そこにいたのは――。
「お父様!」
「マリアンヌ……!」
久しぶりに見る娘の顔は、以前よりずっと明るかった。
そして、その隣には。
「改めまして。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ルードリッヒ伯爵が穏やかに頭を下げた。
「い、いえ! こちらこそ……!」
思わずこちらも頭を下げる。
「遠いところを、ありがとうございます」
「いえ。マリアンヌが久しぶりに帰りたいと言っていましたので」
そう言って、伯爵はマリアンヌを見る。
「な?」
「はい」
マリアンヌが嬉しそうに笑う。
その瞬間、なんとなく分かった。
……この人。
娘を見る目が、完全に夫のそれだ。
しかも、かなり甘い。
妻も隣で微笑んでいる。
「まあ……」
何やら嬉しそうだ。
客間へ案内し、ひと通りの挨拶を終える。
すると、妻が伯爵に話しかけた。
「ルー君」
「はい?」
「ルー君って呼んでもいいかしら?」
「え?」
伯爵が少し驚く。
「もう家族なんですもの。いつまでも『伯爵様』なんて他人行儀でしょう?」
「……まあ、俺は構いませんが」
「じゃあ決まりね」
妻は嬉しそうに笑った。
「ルー君」
「はい」
……早い。
家族になる速度が、少し早すぎないか。
「私のことも、お母様じゃなくてマミーって呼んでくれない?」
「…………」
伯爵が固まる。
マリアンヌは口元を押さえて笑っている。
「お前……」
思わず妻を見る。
「あら、いいじゃない」
「いや、そういう問題じゃ……」
「ルー君、駄目?」
伯爵は困った顔をしたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「本当?」
「はい。マミー……で」
「まあ!」
妻の顔が一気に明るくなる。
「嬉しいわ!」
……完全に息子ができた顔だ。
俺は苦笑した。
だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、この人なら大丈夫なのかもしれない。そんな気持ちが、少しずつ湧いてきた。
そう思っていると。
「お父さん」
伯爵がこちらを見る。
「はい?」
「一つ、ちゃんとお話ししておきたいことがあります」
俺は姿勢を正した。
伯爵の表情が変わる。先ほどまでの穏やかな雰囲気とは少し違っていた。
「今回の結婚についてです」
「…………」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
やはり、この話をするのか。
「たぶん、お二人はこの結婚を政略的なものだと思っていたんじゃないでしょうか」
俺は何も言えなかった。
図星だった。
「伯爵家と男爵家ですからね。どうして俺がマリアンヌを望んだのか。何か理由があるんじゃないか。そう思われても不思議じゃないと思います」
「……はい」
俺は正直に頷いた。
「俺は昔、自分にあまり自信がありませんでした」
意外だった。
今、目の前にいる伯爵からは想像できない。
「人付き合いも得意じゃなかったし、自分から誰かに声をかけるのも苦手だった」
マリアンヌが静かに伯爵を見る。
「でも、学園でマリアンヌを見たとき、一目惚れしたんです」
「……ルー様」
マリアンヌの頬が赤くなる。
俺は言葉を失った。
一目惚れ。
そんな理由だったのか。
「それからずっと、想っていました。ただ、俺には自信がなかった」
伯爵は苦笑する。
「だから、ずっと遠くから見ているだけだった。それでも、どうしても諦められなくて」
伯爵が俺を見る。
「勇気を出して、お見合いを申し込みました」
胸の奥が熱くなる。
あの結婚は、伯爵家が男爵家を利用したものでも、何か裏のあるものでもなかった。
ただ、娘を好きになった男が、勇気を出して娘を求めた。
それだけだった。
「だから、この結婚に俺の側の政略的な理由なんてありません」
「…………」
「俺はただ、マリアンヌを愛していただけです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが、少しずつほどけていく気がした。
俺はずっと、娘を嫁に出すことが本当に正しいのか、不安だった。
相手が伯爵だからこそ、断ることもできなかった。だからこそ、もし娘が不幸になったら――そう思っていた。
「お二人は、きっと心配されたと思います」
「……はい」
俺は正直に答えた。
「娘を、伯爵家に嫁がせるんですから」
「俺がマリアンヌを大切にするのか。本当に幸せにできるのか。色々考えたと思います」
その通りだった。
「実際、結婚してからも、俺はマリアンヌに嫌われるんじゃないかって、ずっとドキドキしていました」
「え?」
思わず声が出た。
隣を見ると、マリアンヌも驚いている。
「だから最初の頃、俺は妙にギクシャクしてただろ?」
「……はい」
「俺は俺で必死だったんだよ」
「ふふ……」
マリアンヌが小さく笑う。
その二人を見て、俺も少し笑った。
なるほど。
どうやら、この伯爵も娘と同じくらい不器用だったらしい。
「でも」
伯爵がマリアンヌを見る。
「今は……両想いだと思っています」
「……はい」
マリアンヌが嬉しそうに頷く。
その顔を見れば、もう十分だった。
娘は幸せなのだ。
それだけでいい。
「だから、お父さん」
伯爵がこちらを見る。
「マミー」
妻が目を丸くする。
「はい」
「この結婚は、本当に嬉しいです」
「…………」
「マリアンヌと結婚できて、本当によかったと思っています」
伯爵の顔は少し照れていた。
だが、その言葉に嘘がないことだけは、父親の俺にも分かった。
「だから……ありがとうございました」
「…………」
「俺にマリアンヌを託してくれて」
俺はしばらく何も言えなかった。
やがて。
「……こちらこそ」
ようやく声が出た。
「こちらこそ、ありがとうございます」
声が少し震えた。
妻を見る。
すでに涙目だった。
「まあ……もう……」
「マミー?」
「ルー君……」
妻はハンカチを取り出した。
「そんなこと言われたら……お母さん、泣いちゃうじゃない……」
「……すみません」
「謝らないでちょうだい」
妻は涙を拭いながら笑った。
「あなたがマリアンヌを大切にしてくれていることは、見れば分かりますもの」
そして、娘と伯爵を見る。
「二人が並んでいるだけで、もう十分分かるわ」
俺も二人を見る。
確かに、マリアンヌは幸せそうだ。
伯爵も、娘の隣にいるときだけ、ずいぶん柔らかい顔をしている。
「もう、心配する必要はありませんね」
そう言うと、マリアンヌがこちらを見る。
「お父様……」
「幸せそうじゃないか」
「はい」
娘が笑った。
俺も笑った。
その横で妻が伯爵を見る。
「ルー君」
「はい?」
「今日から本当にマミーって呼んでね?」
「……はい」
「ふふ。嬉しいわぁ」
俺はその様子を見ながら思った。
妻は完全に、この伯爵を息子として気に入ったらしい。
……まあ、無理もないか。
娘をあれだけ大切にしてくれて、自分たちにもきちんと敬意を払っている。そのうえ、今までずっと娘に嫌われないかと緊張していたという。
思っていたより、ずっと不器用な男なのかもしれない。
そして、そんな男だからこそ、娘を任せても大丈夫なのだろう。
「これからも、よろしくお願いします」
伯爵が改めて頭を下げる。
「こちらこそ」
俺も頭を下げた。
「よろしくお願いします、ルー」
「……できれば」
伯爵が少し苦笑する。
「ルーで呼んでください」
妻がすぐに口を挟む。
「そうよ、あなた。もうルー君なんだから」
「……お前は話が早すぎる」
「いいじゃない」
妻は楽しそうに笑う。
娘も、
「ふふっ」
と笑っている。
俺も思わず笑った。
昔、娘をこの家から嫁に出すとき、俺は不安だった。
幸せになれるのだろうか。泣かされないだろうか。後悔しないだろうか。
そんなことばかり考えていた。
だが、今、目の前にいる二人を見れば分かる。
そんな心配は必要なかった。
娘は、本当に幸せそうだ。
そして、その隣にいる男も、娘と一緒にいることを本当に幸せそうに思っている。
「……マリアンヌ」
「はい?」
「いい人を見つけたな」
「……はい」
娘が嬉しそうに笑う。
その隣で、ルーも笑っていた。
俺はその二人を見ながら、ようやく心から思った。
――この結婚を、認めてよかった。
いや。
違うな。
これは。
俺たちが娘を託したというより、娘とこの男が互いに選んだ結婚だったのだ。
そう思えた。




