大罪の世界?知らねぇよ!
朝食を終えたあと、俺は少し考えていた。
この世界で生きていく以上、最低限の常識くらいは知っておいたほうがいい。前世の記憶があるとはいえ、それだけでこの世界のことが分かるわけではない。昨日までのルードリッヒとしての記憶はあるが、それでも改めて整理しておきたいことは多かった。
「セバスチャン」
「はい、旦那様」
呼びかけると、白髪交じりの髪に整えられた口髭を持つ執事がこちらを向いた。
昔からこの屋敷に仕えている男だ。俺が子供の頃から世話になっていて、記憶の中にも幼い俺の手を引いて歩いている姿が残っている。
「この世界のことを調べたいんだけど、図書館ってある?」
「もちろんございます。旦那様は幼い頃から、図書室にはよくお入りになっておりました」
「そうなのか?」
「ええ。ただ、幼い頃は本を読むというより、読んでいるふりをして昼寝をされることもございましたが」
「……俺、そんな子供だったのか」
「大変可愛らしいお子様でございました」
セバスチャンが懐かしそうに笑う。
どうやら俺の幼少期は、本人にとってかなり思い出深いらしい。
「それと、マリアンヌも一緒に来てもらっていいかな」
「もちろんでございます」
返事が妙に早かった。
「奥様もお誘いになられるのですね」
「うん。一人で調べるより、そのほうがいいだろ」
「左様でございますな」
セバスチャンは満足そうに頷いた。
なんだろう。
妙に嬉しそうだ。
俺はマリアンヌを誘い、三人で屋敷の図書室へ向かった。
図書室にはかなりの数の本が揃っていた。歴史、地理、宗教、法律、農業、商業、魔法、貴族社会について書かれたものまである。
「思ったより充実してるな」
「フェルネ家では代々、知識を蓄えることを大切にしておりますので」
セバスチャンが答える。
「旦那様も昔から領地経営に関する書物を熱心に読まれておりました」
「それは覚えてる」
記憶の中に、書類と本に囲まれている自分の姿がある。
「昔から真面目な方でございましたよ」
「そうなの?」
「ええ。女性関係を除けば」
「そこ強調する?」
「事実でございますので」
マリアンヌが隣で小さく笑った。
セバスチャンも穏やかに笑っている。
なんとなく分かってきた。
この人、昔の俺のことをかなり可愛がってたんだな。
仕事中は完璧な執事なのだろうが、こうして話していると、どこか親が昔の子供を懐かしんでいるような雰囲気がある。
俺たちはいくつかの本を手に取った。
まずは地理。
この国の名前はベルゼピア王国。
大陸には複数の国が存在し、それぞれ異なる文化や宗教、産業を持っているらしい。
俺の治めるフェルネ領も、そのベルゼピア王国の中にある。
「なるほど……」
次に宗教関係の本を開く。
「……七つの大罪?」
そこには、この世界で広く信仰されている七柱の神について書かれていた。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
地球で聞いたことのある言葉と同じだ。
ただし、この世界ではそれぞれが神として崇められているらしい。
「七つの大罪を神として崇めるのか」
「左様でございます」
ページをめくっていく。
ベルゼピア王国は、その中でも暴食の神を強く信仰している国らしい。
「だからベルゼピアなのか」
「そのようでございますな」
暴食を司る神。
食事を楽しむことや、食べ物を粗末にしないことにも意味があるらしい。
「へえ……」
思っていたより、ちゃんとした宗教観がある。
暴食の国なんて名前だから、国民全員が朝から晩まで何か食べているのかと思った。
もちろん、そんなわけはない。
「七つの大罪を神として崇める世界ねえ」
しばらく考えてから、本を閉じる。
「まあ、俺には関係ないな」
「……左様でございますか」
セバスチャンが少しだけ目を細めた。
「だって俺、ただの伯爵だろ?」
「はい。旦那様はフェルネ領を治める伯爵でございます」
「だったら、神様とか国の歴史とか、俺がどうこうする話じゃないだろ。領地をちゃんと治めて、マリアンヌと楽しく暮らせれば十分だ」
「……そうでございますな」
セバスチャンは静かに微笑んだ。
その顔には、少しだけ安心したような色があった。
「それが一番でございます」
「ん?」
「いえ、何でもございません」
セバスチャンは本を閉じた。
その横顔を見ていると、ふと昔の記憶が浮かぶ。
幼い頃、叱られて泣いていた俺を慰めてくれたこと。
剣の稽古で転んだときに手当てをしてくれたこと。
父親に怒られたあと、何も言わずに隣にいてくれたこと。
俺にとっては使用人だった。
でも、たぶんそれだけじゃなかったのだろう。
今の俺を見ている目が、どこか懐かしそうで、そして嬉しそうだった。
「マリアンヌ」
「はい?」
「昼、何か食べたいものある?」
「え?」
「せっかく一緒にいるんだし、今日は外で食べようかと思って」
マリアンヌが少し考えてから、嬉しそうに笑った。
「それなら、ルー様と一緒に選びたいです」
「分かった。じゃあ行こう」
「はい」
二人で並んで歩き出す。
その後ろからセバスチャンがついてくる。
「旦那様」
「ん?」
「午後からの予定はいかがなさいますか?」
「あー……」
そういえば仕事があった。
「昼食のあとでやるよ」
「承知いたしました」
「その前に、マリアンヌと少し散歩してからでもいい?」
「もちろんでございます」
セバスチャンは即答した。
「旦那様が奥様と過ごされる時間を邪魔するつもりはございません」
「そう? 助かるよ」
「はい」
セバスチャンは笑った。
仕事の予定が少しくらい後回しになったところで、何も問題はない。
それよりも、今の旦那様が奥様と楽しそうに過ごしていることのほうが、彼には嬉しかった。
幼い頃から見てきた。
優しい子だった。
真面目な子でもあった。
ただ、肝心なところで臆病だった。
マリアンヌを好きなくせに、嫌われるのが怖くて何もできない。
そんな主人を見て、何度「もう少ししっかりなさいませ」と思ったことか。
だから今、奥様に自然に声をかけ、一緒に歩こうとしている姿を見ると、胸の奥が温かくなる。
――ようやく、少しは幸せそうな顔をされるようになりましたな。
そんなことを思いながら、セバスチャンは二人の後ろを歩いた。
家に帰れば、きっと今日のことを妻に話すだろう。
今日の旦那様はこんなことをされた。
奥様とこんな話をされていた。
以前とは違って、あんなに楽しそうに笑っておられた。
たぶん、今日もそんな話をする。
仕事場では主人。
屋敷を離れれば、昔から知っている大切な坊ちゃん。
セバスチャンにとって、ルードリッヒは今でもそんな存在だった。
そして当の本人は、そんなことにはまったく気づかず、隣を歩くマリアンヌを見ていた。
「マリアンヌ、昼は何にする?」
「ふふ……ルー様と一緒なら、何でも」
「それは困ったな」
俺は笑った。
世界のことは、まあ少しずつ知っていけばいい。
七つの大罪だろうが、神様だろうが、今の俺にはそこまで重要じゃない。
俺には領地がある。
やることもある。
そして――大切な妻がいる。
今は、それで十分だった。




