第12章 追跡馬券生活 28
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券と底辺の仕事をこなすサバイバルの日々を綴ってゆく」
5 偶然という必然
その1
優香は振り返り、転げ落ちる草野を確認した。慌ててバッグの中から折り畳み式のナイフを取り出し、彼の後を追いかけた。河川敷へと坂を突進していったのだ。
小雨が降り出していた。周りはすべてが暗闇に溶け込んでしまっていた。さらには背の高い雑草が生い茂っていた。
狂死狼はつい、その瞬間を見逃してしまっていた。マユが泣きやまないとのメールを確認するために視線をスマホに移したからだ。ご丁寧に動画付きのメールはアリサからだった。
警察官としての訓練と経験を積んでいた杉田の反応は違った。潜んでいた物陰から危険を察知して優香の後を追いかけた。さすがに鍛えられている足はスピードが違った。
優香はナイフの切っ先を草野の背中に向けてまっすぐに飛んだ。暗闇の中とはいえ、呻き声をあげて転がり落ちる男を追うのは難しいことではなかった。
杉田が坂を下りる途中だった。胸ポケットの中のシャン子が顔を出し、杉田が転げそうになった拍子に飛び出していった。あろうことか、シャン子は優香の足元を通り抜けて草野の元へ走った。
優香はなにかが自分の下をすり抜けてゆく気配を感じた。一瞬ひるんだ。
「おい、待て」杉田は全力で仔猫を追いかけた。
草野の足元にシャン子が到着したとき、みゃあと一声鳴いて彼を見上げた。
「ああ? なんだ、お前は」草野は苦痛にゆがんだ顔を一瞬だけ仔猫に向けて言った。そしてゆっくりと右足を上げて振り下ろした。
「おい、やめろ~」
杉田が叫びながら優香の身体を横切った。
まるで全体がスローモーションに切り替わったようだった。
そこからの悲劇は、狂死狼もはっきりと確認した。
シャン子は草野の右足につぶされた。
ギャッという声が聞こえた。
必死にそれを止めようと杉田は草野にしがみついたが、間に合わなかった。
と、同時に狂気に満ちた表情の優香のナイフが杉田の背中をとらえた。
「うわあああああ~」
杉田の叫びが空を貫いた。
狂死狼はようやく追いつき、優香の身体を抱きとめて杉田の背中から引きはがした。
「きいいい~~いい~」優香は奇声を上げた。現実の世界から逸脱していると思える異様な声だった。
強い雨が降り出した。
狂死狼は優香の手を掴んで河川敷の土手の上へと走り出した。優香はそれに従った。
「ううふふふ、わははは。あははは……」
草野もまた狂気に満ちた笑い声をあげた。
「いいじゃない、いいじゃない。何この展開。思った以上だわ。あはははは」
草野は次第に強まる雨に濡れ、ふらふらとよろけながら歩き出した。
倒れ込んだ杉田はその場に置き去りにされた。呻き声をあげながらシャン子の亡骸に手を伸ばしたのだが、届かなかった。
狂死狼は優香を連れてアリサの元へと向かった。他に行くところなど有りはしなかった。
二人は終始無言のまま、寄り添うようにして歩いた。タクシーなど使っては足がつくとも考えて居た。
アリサは何も言わずに優香を部屋に入れ、介抱した。優香は返り血を浴びていたが、特にケガはなかった。ナイフを握りしめて硬直したよな両手をゆっくりと、さするように温めた。それから優香は寝入ったマミの姿を見ると、ようやく声をあげて泣きじゃくった。妊娠している彼女にとって、自分が犯した罪と、まだ見ぬ我が子への罪と、いたたまれないほどの激しい感情が突き上げられたようだった。
「なんで止められなかったの?」
すべてを察したかのように、アリサは狂死狼を責めた。
「いや、それはお前の……いや何でもない。すまん」
メールのせいだとは言えなかった。
(草野と間違えて刺してしまった刑事、杉田……病院へ運ぶべきだっただろうか……いや、そんなことはできない。できる訳がない。俺たちは犯罪者だ。捕まれば……おそらく優香は死刑だろう。俺だって下手したら無期懲役だ。逃げるしかなかった。それにしても……こんな偶然があるのか? よりによってあんな場面で何故、仔猫が……なんで飛び出してくるんだ? 確かにヤツは言っていた。誰かにプレゼントされたと……だけどそんな偶然って)
狂死狼はついさっきの悲劇が、あまりにも過去に犯した殺人劇に酷似していたことに異様なほどの恐ろしさを感じていた。それは優香も同様に思えた。
起こったことを今振り返って考察する気には到底なれなかった。考えただけで恐ろしいことだ。
運命のいたずらなどと軽い言葉で振り返られるほど、単純なことではないのだ。
罪と業の深さによって、あらためて体の奥底が震えてくるのだった。
続く




