第12章 追跡馬券生活 2
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券と底辺の仕事をこなすサバイバルの日々を綴ってゆく」
1 永遠の始まり
その2
やはり産むのか……馬鹿な、逃げるのが精一杯のくせに子どもなんか産んでどうするつもりだ。どうやって育てる? 全く理解に苦しむな。この男、結局馬鹿なんじゃないのか? まあ女の言う通り、逃げるっていうのもアリだな。
笠浦は完全な人ごとであり、本当かどうかもわからない小説の更新に嬉々としながらも作者=主人公(と信じる男)の行く末を案じていた。
しかし、産むとしたら病院に行かなければなるまいし、入籍はするのかしないのか。住処はいったいどうしているのか…まだここS市にいるのだろうか。いや、どこにいるのかさえ正直に小説に書いてあるとは限らないだろう。これだけの情報では何もわからないし、居場所を突き止めるのも難しいだろう。小説サイトから調べ上げて作者を特定することも可能だろうが、さすがに俺の力じゃ無理だ。逮捕状なんてのもあり得ないし……誹謗中傷のセンで裁判所決定をでっちあげて特定するかあ……まあ、今の段階じゃあいずれも難しいな。特定したところで犯人とは限らんよなあ。
独り言のように笠浦は、客もまばらな古い店の骨董品のような直立した背もたれの古い椅子に腰かけながら思案に耽った。
まあ、とにかくせっかくブログを再開したことだし、しばらく様子を見るとするか。一日おきに更新してゆくとコメントも残していることだし。いずれボロを出してくるに違いない。
そう結論付けた笠浦は2杯目のアイスコーヒーを注文し、コンビニで買ったスポーツ紙を取り出してテーブルに広げた。
カラフルな記事が目に飛び込んできた。明日はS記念16頭立てか。なかなかの馬がそろったな。固い決着か、それとも大荒れか……
笠浦は馬柱に一通り目をやり、各馬の比較検討を始めた。黒縁の眼鏡をかけた年増の不愛想な女店員が広げた新聞を見つめ、グラスの置き場所に困っていた。こんな時、決まって彼は横目に店員の顔を見ながら、わざと無視した態度を取る。
「あのう……これ、どこに?」
めんどくさそうにしぶしぶ声をかける女店員にこう言う。
「ああ、あのね。勝つ馬のとこに置いてくれるかな」
「はあ……どの馬が強いんですか?」もはや一刻も早くこの場を去りたい店員は、切れそうになるグラスを持つ右手の平静を保つので必死だった。笠浦の顔はにやついていた。
「たぶん、これ」痺れを切らし、少し乱暴な感じでグラスを置いて店員は去っていった。
「ほほう、けっこう詳しいねえ」笠浦はにやけた顔を店員の背中に向けた。
置かれたグラスの中心はソダシだった。
平年並みとはいえ、まだまだ暑い。H道在住の人間にとって27度超えというのは真夏であり、歩けば汗が噴き出るうっとおしい気温だ。
不味くもないが美味くもないナポリタンと3杯目のアイスコーヒーを腹に収めた笠浦は冷えた身体をすぐに取り囲む熱気と吹き出る汗に閉口しながら外に出た。歩いて7分ほどの中央競馬場外馬券売り場WINSへと向かった。本当はS競馬場で開催中の生の競走馬が見たいのだが、仕事中の手前さすがにそれはできない。かといって、モニター画面だけの馬券というのは嫌いで、できる限り紙馬券を買うというのが彼のこだわりだった。
WINS場内は感染症対策のころとは比べようもないほどに混雑していた。競走馬に己の金と運気や未来、果ては命までをも賭けるかのような者たちの熱気が押し寄せてきた。
笠浦は手早く慣れた手つきでマークシートを塗りつぶし、馬券販売機へと向かった。5人が並んでいて最後尾に並んだ。ようやく順番がめぐってきて彼は合計5枚のマークシートと手持ちの紙幣3枚を機械に吸い込ませた。
「現金が不足しております。お金を入れるか清算を押してください……」無機質な機械から声が流れた。
「なんだ? あれ、おかしいな」笠浦は上着とズボンのポケットをあれこれ探った。「あちゃー500円足りねえ……どうするよ」あせりからつい、独り言が出た。すると肩を叩かれ、振り向くと後ろの男が500円玉を差し出してきた。
「よかったらこれどうぞ」おだやかな声の持ち主だと思った。振り返るとマスクで顔はよくわからないが、だいたい40前後の中肉中背の男だ。
「さっきのレース獲れたんでゲン担ぎですよ」
「あ、これはどうも。すいません」
笠浦は500円硬化を受け取り機械に投入し、馬券を手にした。
「いやあ、ありがとうございました。助かりました……」
振り返ると男はすでにいなかった。それらしい後ろ姿も消えていた。
「え? なんだ。奇特な奴もいるもんだ」
笠浦は気にもしないで馬券を財布へとしまい込み、また蒸し暑い雑踏の中へと向かった。
特別な出会いの瞬間だった。
続く




