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逃亡馬券生活   作者: 狂死狼
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第11章  新たなる旅立ち 5

「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券と底辺の仕事をこなすサバイバルの日々を綴ってゆく」

1  哀しい声


 その5



「悲しいとか悔しいとか切ないとか……あらゆる人間の感情を超越してしまうよね……」

 先生の重い口がようやく開いた。絞り出すようにぽつりと言った。

「わかるような気がします……本当にはわからないことだけど」

 俺はそういうのが精一杯だった。それから先生は号泣した。

 人間というのはどうしたって感情の生き物だ。神様や聖人君子じゃあるまいし、爆発した感情を抑えることはできない。それでも、その感情をなだめて透かしてでも生きていかなきゃならない。俺のようにいっときの感情ですべてを失うのとは訳が違う。先生は多くの人間を病いから救うという普通の人間にはできない資格と責務がある。いつまでも堕落したまま生きてゆくことなんて許されないのだ。まして同じ悲しみを背負った奥さんが待っている。おこがましいことだが、早く復帰するよう俺は説得を続けていた。はぐらかされながら、これが三度目の正直だった。

 子供のように声を上げて泣きじゃくった先生は、やがて落ち着きを取り戻した。

「……わかりました。君の言うことはよくわかりましたよ。確かにわたしは動揺し過ぎていた。怖れていたその時が来たら、自分がどうなってしまうのかまるで分らなかった。不安だった。そしてその日を迎えた時、私の中で何かがはじけた。自分の体の半分、いや、9割がガタガタと音を立てて崩れていった気がした。もはや自分がこの世に生きていることさえが深い業であるかのように思えて生きていたくなかった。かといって死ぬこともできなかった。そんなことをしたら彼に笑われるであろうことは感じていたんだ。自分を全否定するしかなかった。息子一人も助けてやれないで何が医者だ。そう思うとやり切れなかった……。阿保な馬鹿者になってしまいたかったんだよ。だけど……そんな弱音を、死んだ彼は許しちゃくれないよね。そうなんだよ。わかってるんだよ」

 先生のほとばしるような哀しい声が、俺を、ミウラとちゃんごを泣かせた。

 昼間から飲んでいる阿保な馬鹿者の4人を、蔓延防止条例とやらでまたまた経営が苦しくなるであろう居酒屋の店主は厨房の陰から冷ややかな目で見つめていた。

 人が死ぬということはいったい何なのだろうか。誰だって人は必ず死ぬ。どんなに長生きしたってせいぜい100年だ。これまで世界中に生まれ落ちた人間は、ほぼ全てが100年を待たずに亡くなっているのだ。それほどありふれた死というものが、なぜこんなにも人間を苦しめるのだろうか。なぜ死というものが、例えば遠い国にちょっと旅するというような、なんてことのない日常にはならないのだろうか……。

 もっとも、それは俺が言えるようなことではない。それは重々承知している。


 とにもかくにも、先生は約一か月に及ぶ逃避行から離脱し、ようやく日常へと戻っていった。奥さんは何も言わずに先生を受け入れてくれたそうだ。なかなか良くできた人だと思う。俺はもしもこの先、結婚することが出来るのなら、あんな人がいいなと心に決めていた。はかない夢ではあるが。

 残された3人は未だにくすぶっていた。

「なんか仕事捜さないとなあ……」

「ああ。もう金もないし、そろそろ……」

「いつまでも遊び惚けてはいられないよなあ」

 毎度毎度同じことを口にしながら、3人は気前のいい先生が抜けた穴を惜しみつつネバーランドの狭い部屋に集まっては安酒を食らっていた。当然ながら競馬は一向に当たらず、みるみる資金を減らしつつあった。

 俺が今年から始めた競馬の新投資法はまずまずの成果を上げていたが、馴れ合いでずるずると全レースに手を出しているうちに結果的に大幅マイナスとなっていた。

 まあこれも人生。なるようになるさ。今は雪も多いし寒さが堪える。もう少し暖かくなったら動こうぜ。おおー。だいたいがめんどくさくなってきてはそんな結論に至り、深夜にそれぞれの部屋へと戻り眠りにつくことになる。真にクズの集まりと化していた。稼ぎにもならないギャンブルざんまいのろくでもない集団だ。それでも明日は川崎で、少しは稼げるといいのだが……。

 

「ちょっと起きてよ。もう9時過ぎだよ。ねえ。ねえってば」

 俺は先生の奥さんと楽しく飲んでる夢を見ていた。奥さんの優しい声がいきなり棘のある聞き覚えのあるような声にさえぎられた。

「いきなりで悪いけどさ、大事な話があるのよ」

え? なぜここに?

俺は飛び起きた。

目の前にはアリサがいた。

「あ、どうしてここが。え? なんで」

「あのね。単刀直入に言うね。どうしようか少し迷ったんだけどさ。できちゃったから、またまた追いかけてきちゃったのよ」

「え? な、何が」

 俺は動揺を隠しきれずにあたりを見回した。そして逃げられないかどうかを探った。狭い、狭すぎる。ネットカフェのこんな小さな部屋では出口をさえぎったアリサから逃げ出すのは到底無理なことだと観念した。

「おなかに赤ちゃんがいるから……」 

え? えええ?

 俺はただ、狼狽えるしかなかった。



   続く


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