第11章 新たなる旅立ち 1
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券と底辺の仕事をこなすサバイバルの日々を綴ってゆく」
1 哀しい声
その1
ネバーランドの夜は静かに更けていった。
静かだった。時おり誰かがドリンクを注ぎに行ったり、読み終えた漫画本を交換しに行く靴音が聞こえるくらいで音はほとんど聞こえなかった。ヘッドホンからはシャリシャリと聞き取れない声が低く漏れていたが、モニターに映る古いモノクロ映画は悪役がせっかく収穫の時期を迎えたトウモロコシ畑に火をつけるという悪さを仕掛けたあたりからもうストーリーを追いかけるのを諦めていた。ただ動く絵をぼんやりと眺めているだけだった。飲みかけのぬるくなった2本目の缶チューハイを3分の1ほど残したまま、俺は食べかけの食パンをかじった。今日の昼に買ったばかりだというのにもう固くなり始めた食パンは少しも旨くなかったが、空腹を満たすには充分な代物だった。だいたいこのインベーダーみたいなカタチをした食パンの袋を縛るヤツはくその役にも立たないと思う。一袋70円の安い食パンに耐久性を求めるのがそもそも間違っていることは承知しているつもりだが。
この静けさは3年前に俺がここに来た時にはあり得なかったことだ。新型ウイルスの影響がまだまだ根強く残っているのだろう。カウンターに立つ店員も客も、未だにマスクの着用は必須となっている。
あの時の俺には何もなかった。ただあるのはしでかした過ちの大きさにただ震え、泣き叫びたい衝動を抑えるための酒と競馬というギャンブルだけだった。それから数奇な運命にもてあそばれたように様々な出会いと出来事が俺を待っていた。
すべてが懐かしい。すべてが夢のようだ。そしてすべてが空虚でうつろな幻のように消えた。
いや、消えたわけではない。確かに全部俺の生きた証しだ。出会った友も敵も愛した女たちも……。
ここに来てもう一週間だ。
アリサを置いて俺は部屋を飛び出した。警察の手が忍び寄っていることを察したからだ。陳さん一家のもとでアルバイトを続けていた俺はそれなりに楽しいと言える生活を送っていた。仕事はちょっとした人助けや簡単な調査や売り込み営業の手伝いなんかで、さほど苦にはならなかった。安い給料でもアリサの稼ぎと合わせたら暮らすには充分だった。ささやかな幸せというものを感じ始めた矢先だ。陳さんが俺のことを調べる警察の匂いを嗅ぎつけたのだ。
陳さんには事の顛末を全て話した。もはや失うものがない俺の身上をおもんばかった陳さんは、最初自首することを強く薦めた。俺も一度は考えた。それが一番いいことだと素直にそう思えた。だが無理だった。
結局、臆病なのだ。それに心のどこかでやはり俺は悪くない。あいつが……あいつが……
それはどうしても消えない憎悪の炎だった。そんな奴のために刑務所暮らしをすることなど俺には無理だった。
そしてそれは、カオリと優香を、かつて愛した女たちを貶めてしまうことでもあるのだ。
俺にそんなことはできができるはずもなかった。そして、彼女たちが今いったいどうしているのか、知りたくもあり知りたくもなかった。
今となっては知る由もないし連絡を取るなんてことはできるはずもなかった。
アリサとのこともそうだった。こんな俺と関わることに後ろめたさをどうしても感じてしまう。彼女は彼女なりの普通の生活を普通の幸せを掴むべきだ。こんな犯罪者とともにいることはデメリットでしかないだろう。だから、非情にも……と陳さんには言われたが何も言わずに消えることにした。行先も告げずに……。許してくれ。俺はお前を幸せにはできない。そんな資格もない男だ。
一年近くそばにいた女を俺は捨ててきた。
もう明日への夢も希望も俺には何もないのだ。この先どこでどうなろうと知ったことじゃない。それでいいんだ。誰にも迷惑をかけずにこの世からいなくなることこそが俺に与えられたこれからの使命なのだと思う。そう、誰にも知られずに……。
ただし、ただ即身仏のように一人朽ち果てるつもりはない。最後の最後まで、未練たらしく運命にあらがうつもりだ。誰の助けも借りずにたった一人で……。
俺は久しぶりにあの先生に会いたいと思った。
次の朝、俺は零下の気温の中、凍えるような寒さに震えながらあの先生の病院へと向かった。
続く




