第10章 果てしない旅路 16
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。本格的な投資馬券と命を食いつなぐサバイバルの日々を綴ってゆく」
3 愚者の祈り
その4
あの二人がどういう関係であるのかそれぞれが気付いているとしたら、それはとても恐ろしいことになるだろう。今回の入れ替わり問題は、どう考えても他人であればこそ成立し得るのではないのか。それぞれにメリットあることを承知の上で命の交換をしたはずだ。けれど、それが身内であるならば、簡単に納得などできるはずはないのだ。山本の身体の中の堂上は、山本が自分を殺しに来ると怯えていた。そのために死ぬしかないとあきらめているように見えた……本当なのだろうか? 山本が入り込んだ堂上の身体の方はどうなのか。彼は今何を考え、何を望んでいるのだろうか。俺にはわからなかった。ただ、とてつもなく恐ろしいことが現実に進行している気がして、いてもたってもいられなかったのだ。できるなら、こんな面倒なことからは今すぐ逃げてしまいたい衝動に駆られていた。
「仮に、二人が望んだ場合ですけど、今から二人を元に戻すってことはやっぱできないんですか」
俺はホテルに向かうタクシーの車中で陳さんとママに訊いた。二人は返事の代わりに首を少し曲げる仕草をしただけだった。
〈やってみなければわからないし、それはとても危険が伴うことだ〉
という趣旨のことは一度聞いていたから野暮な質問ではあった。
山本がねぐらとしているホテルは人気もなく閑散としていた。コロナ禍によってこの頃は宿泊客が極端に減少している。ホテル経営者にとってはこれほどの苦難もそうはないだろうと思える。
「頼む、俺をこのナイフで……頼む」
「イヤあ、ヤメテ!」
ホテルの監視用の部屋からは夕闇を切り裂くような声が聞こえてきた。どう考えてもまずい状況だ。
幸いオートロックではない古い仕様のため、ドアはすぐに開いた。
「おい、やめろ!」陳さんの怒声が響いた。
俺たちは部屋の中へと乱入した。
部屋の中では血まみれになった山本が震える手にナイフを持ち、寧音に迫っていた。
「イヤあああ」
寧音の悲鳴が廊下に響き渡った。
「おい、やめろ。落ち着け。いいからまずナイフを置け」
陳さんの声に振り向いた山本が大きく目を見開いて迫ってきた。
「おおおおーお前たち。俺をこんな目に合わせやがって。どうしてくれるううう」
その眼は狂気に彩られていた。
ナイフの切っ先が陳さんに迫った。しかし、その切っ先をくるりと返して柄の方を陳さんに向けた。
「頼む俺を殺してくれ。もうこれ以上俺を苦しめないでくれ。今すぐここを刺してくれ。自分じゃあなかなか死ねないんだよ。頼むよ。ほらここを」
何度も何度もためらい傷を作ったのだろうか、山本の上半身は血まみれになっていた。胸のあたりをつつくようにナイフの柄を陳さんに向けた。
「兄さん、駄目よ。殺しちゃダメ」寧音は泣きながらわめいていた。
「山本さん、いや堂上さん。なぜせっかくの若い命をここで終わらせなくちゃならないんだ? いったい何があったというんだ」
「ああ。そうだ。初めはこの計画に半信半疑ながらも喜んで飛びついたさ。それが現実になった。だけど、俺は知らなかった。妹の頼子がまさか生きていて、あいつが産んだ子が山本だったなんて。俺は俺は……幼い頃食うものがなくてひもじい思いをしながら……薄い布団にくるまって一緒に泣いていたあの頃の頼子のことが今でも忘れられない。病気になった頼子を助けてやれなかったことが今でも悔しくてたまらないんだ。まさかその頼子が生きていて、その子の愁一の身体を乗っ取ってしまうなんて、俺はなんて大馬鹿者なんだ」
「それは……山本氏が引き取る際に秘匿したことだったはずだ。なぜわかった?」
陳さんは向けられたナイフをつかもうとせずに問い質した。
「頼子が……お兄ちゃん、なんもいいから。そのまま息子の身体を使って、少しでも長生きしてねって……夢のお告げで現れたんだよ。俺は俺はもう、いたたまれなくなったんだ。俺一人生きていてなんになるっていうんだ。もう元には戻れないにしろ、俺が先に死ねば、きっと、愁一になった俺の肉体も、もう少しは生きられるだろう。彼の復讐心も消えるだろう。俺は、俺は、カルネアデスの板を、甥である愁一に譲らなければならないんだ……」
山本愁一の姿をした堂上は大きく背中を震わせた。その瞬間ナイフはぽとりと床に落ちた。
「そういうことか……」
もう、俺にはなす術がなかった。
続く




