第10章 果てしない旅路 14
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。本格的な投資馬券と命を食いつなぐサバイバルの日々を綴ってゆく
2 愚者の祈り
その2
堂上は、そよ風にさえも小さな炎をゆらめかせているほとんどが溶けかかった蝋燭のようだった。その本体は皿の上に一つのかたまりとなって白く淀んでいるように見えた。最後の芯がわずかに蝋の中に残っていて、かすかな青い炎をとどめているに過ぎなかった。生命を維持するためのチューブがいくつも差し込まれ、体のそこかしこから電線が延びている。注射針につながれただいだい色の溶液が静かに体内に取り込まれていた。
○○中央病院の12畳ほどの個室のには機械に取り囲まれて大きめのベッドが置かれていた。命乏しき老人はベッドの上で微動だにしなかった。そのまぶたはわずかに開かれ、焦点の定まらない目玉が虚空をさまよっていた。
灰色の殺風景な病室だった。
一般の見舞客が面会できるはずはなかった。偽の身分証で身内を名乗り、入室したのだ。
堂上のかたわらには妻の芽衣子がほとんど化粧もしない乾き切った表情で見守る姿があった。もともと細身の婦人ではあるが、看病疲れでさらにやつれてしまったのだと感じた。初老の年齢相応のしわが額に刻まれていた。
なんて声を掛けるべきなのか……一瞬おれは迷った。気まずさが病室を覆いつくす前に掛けるべき言葉を選んだ。
「あのう。ご容体はいかがな感じでしょうか?」声をかけてからしまったと思う。変な日本語だ。おまけに声が上ずっている。もちろん、俺が例の特殊な依頼を受けた業者だということは彼女に知られている。
「はい。ええっとその。あまりよろしくはないので……」
そう言うのがやっとといった風に芽衣子は顔を伏せた。だけどその顔は、夫を近い将来亡くす悲しみとはどこか違っていた。もちろん、あからさまに喜ぶというのでもないが決して、心の底から哀しいという風には視えなかった。医者の見立てではこの老人はおそらく、ひと月と持たないだろう。それを知りながらの態度には到底思えないのだ。
「あの、すみません。堂上さんが望んだことについては……その、やはり間違いだと?」
訊かずにはおられないことを訊いてみた。
「いいえ。そうは思いません。堂上が望んだことですから……ただ、わたしには堂上が、今は別人で他人の心にその魂が宿っているなどとは……どうしても思えないんです。この人はこのまま近いうちに死んでいくでしょう。それは仕方のないことです。自然の摂理ですから。でも……他人のままで生涯を終えるなんてこと。そんなことは堂上自身が許さないんじゃないかとわたしは思うんです」
そう言ったときに初めて夫人の顔には悲しみの色合いが濃く表れていた。
「入れ替わったあの青年は元気にやってますよ。しばらくは遊び呆けてましたが、この頃は落ち着いてきたのか、それまでの暮らしに似合わず図書館に通ったりして、教養を高めるような面が出てきて」
わざわざ報告するべきではないかと思ったが、つい口に出た。
「そうですか……それはそれは」
あまり関心がないようだった。
「それはいいんです。私は堂上に少しも愛されなかったから。この人が愛したのは自分だけだったから……だから」
なるほど。この人はこの老人に愛されたことがなかったのか。愛のない夫婦というものほど悲しいものはないのかも知れない。
しかしその夫が今、移り住んだ若い男の肉体の中でその男の魂に逆襲されつつあるのだ。その肉体を奪いあうという極めて不幸な地獄絵図に陥っている。なんて事実を知ったなら、この人はいったいどうなるのだろうか? いや、知らぬが花だ。この人はここで老人を静かに看取るのが役目だ。それ以上でも以下でもない。冷たいようだがそれこそが自然の摂理だ。
なんだかおかしいような気持ちを悟られないように、俺はもう一度死にゆく老人の顔をまざまざと眺めてみた。
う?
ざわざわと心臓の内側が泡立ってゆくような感覚に襲われた。なんだろうこの違和感は…
それまで思ってもみなかった恐ろしい想像に俺は駆られた。
いや、そんなはずはない。事前に山本の素性は入念に調べ上げているはずだ。陳さんがそんなミスを犯すはずもない。
間もなく死んでゆく老人の顔をゆっくりと眺め、右45度の角度で見た時に俺は確信した。
山本の顔にそっくりなのだ。特に鼻筋と目元のあたりが……まるで親子のようだ。
いても立ってもいられず、俺は陳さんの事務所へと急いだ。
続く




