第10章 果てしない旅路 8
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。本格的な投資馬券と命を食いつなぐサバイバルの日々を綴ってゆく」
1 眠れない日々
その8
「ぐぐぐわあああ」声にならない悲鳴に似た叫びをあげて老人は眠りに落ちた。
「まずい。おいちょっと、診療所へ運ぶのを手伝ってくれ」陳さんは俺に、老人を運ぶ手伝いをさせるつもりだ。
「ちょっと待って、陳さん。いったいこれってどういうことなんだ。それに俺はあんたの仕事を手伝うとはまだ決めてない」
「うるさいね。つべこべ言う前に手伝えばいいよ。いいからそっちもって。人命がかかってんのよ」
老人は泡を吹いて顔を真っ赤にしていた。小刻みに痙攣している。確かに危険な状態のようだ。
「診療所って、あそこのことか」
「ああ。ここから三つ先のビルの中だから。さあ運ぶよ」
「おお。そっちはわしか。いや元の自分か。少しは永く生かしてくれよ。じゃあ、わしはこれで」「ああ。だめだめ。まだ様子見ないと。侭侭、寧音、ちょっと頼む。すぐ戻るから、見張ってて」
俺と陳さんは非常エレベータと裏口から台車を運び、三つ先のビルの裏口から入った。
数人の通行人が怪しんで俺たちを見たが白衣を着てマスクをしていたために通報されることはなかったようだ。
暴力団御用達のオンボロ診療所は表に看板も何もなかったが、中にあった処方箋袋には『シロヒゲクリニック』という名前が書いてあった。山本周五郎の小説、映画やドラマでよく観るあの『赤ひげ』の真似なのだろうか。しわくちゃの爺さんは確かに白い髭を生やしているが……。陳さんの事務所『アカボロ萬相談所』てのもなんか似たようなもんなのか? いや、そんなことはどうでもいい。この堂上とかいう老人はこれからどうなるというのだ。本当にあのチンピラ山本という男と入れ替わったというのだろうか。だとしたら……。
「うーん。まあ、まだすぐには死なんだろう。薬と精神的ショックでひきつけを起こしたようだが
時期に落ち着いたら大丈夫だ。ただ」
「ただ?」
「膵臓がんの末期だから。そう永くは……」
「それなら問題ない。告知の期間さえクリアしてくれれば……」
陳さんは見たことのない冷ややかな目をしていた。
なんて残酷なことをあっさり言いやがるんだ。俺は少し吐き気を催した。
老人はベッドの上で鎮静剤のようなものを注射されてすぐに眠りに落ちた。
「じゃあ。後はよろしく頼みます」
しわくちゃ爺さんは白いあご髭をなでながら二カッと笑った。
「ちぃと高いよ。今回は」
「ああ。わかってる。たんまり弾むよ」
俺と陳さんはふたたび『アカボロ萬相談所』へもどった。
山本はいびきをかいてベッドの上に仰向けで眠り込んでいた。
「あの山本を監視してくれないか?」
陳さんは北寄貝の刺身をうまそうに頬張りながら言った。
港近くの居酒屋で俺は陳さんと、面接というよりも歓迎会の様相となったテーブルをはさんで酒を酌み交わした。
T市は港町ではあるが漁業はさほど盛んではない。北寄貝が有名ではあるが、そのほかの漁獲高は細々としたものだ。大きな港があるが、つまりすべての産業が海運業に集約される街なのだ。フェリーに乗ってやって来る観光客、H道一周や日本一周をもくろむバイク、自転車乗りたちが降り立つ聖地でもある。
「堂上清太郎はこの街の海運業を取り仕切る有力者なんだ」
陳さんはジョッキ3杯目を飲み干してようやく今回のことを話し始めた。それはにわかには信じられるものではなかった。
続く




