第10章 果てしない旅路 6
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。本格的な投資馬券と命を食いつなぐサバイバルの日々を綴ってゆく」
1 眠れない日々
その6
ベッドの上であおむけになり、堂上清太郎は天井を見つめたまま小刻みに震えていた。その眼には涙があふれていた。67歳という年齢のわりにはしわに埋もれてしまったような印象のその顔は、80歳を超えた老人にしか見えなかった。鼻には管を通され手足は様々な装置につながれ、心電図や血圧や様々な数値がモニターに映し出されていた。声を発することはすでに無理だった。誰の目にもこの老人がまた元気に立ち上がり、散歩したり買いものをするといった姿を想像することはできなかった。見えないお迎えの死神がすぐそばに来ているだろうことは想像できた。
「本当にこの人が……まだ信じられないけど、愁ちゃんはこのままなの……もう起き上がらないの……ねえ、なんとかしてよ」
老人のベッドのわきには若い女が泣きわめくようにしがみついていた。山本愁一と暮らしていた、キャバクラの女だ。愁一は彼女のひもだったようだ。彼女がこのような姿をこの老人に対して見せるということは、いささか驚きではあった。ずっとこの事態を信じることができなかったからだ。傍らに立つ清太郎の妻、芽衣子はあきらかに動揺を隠さず、そして困惑していた。
「この人は……山本……さんの?」
「ええ。そうです」陳さんは老人を見つめていた目を芽衣子に移して答えた。冷ややかな目だった。
「本当にこれで良かったのかしら……あたしには未だに何が何だか」
「ご主人が望まれたことです。奥様のご了解はきちんとあの時に書名をいただいてます」
「ええ、それは……そうですけど」
この老人が山本愁一であり、堂上清太郎は今や若き山本愁一となって元気に遊び回っている
その現実に俺はいたたまれない、気まずい気持ちをなんとか抑え込み他人事のような気持ちでなりゆきを見守っていた。
「こんな時にアレですけど、山本さんはいったいどこに」奥さんがまた陳さんに訊いた
「足取りはつかめておりますのでおそらく、間もなく見つかるかと」
陳さんはそう言って俺の顔を見た。俺は慌ててうなずいて見せた。
女が振り向いた。「それなら、お願い。あの人を連れてきて何もかももとに戻して。こんなのってひど過ぎる。人間のやることじゃない」
女は陳さんに詰め寄った。
「悪いけどこれはお互いが望んだことだし。わたしはその願いを叶えただけだから。法律に触れるかどうかは知らんが……なんなら、裁判で争うしかないんじゃなのかな。お望みというならば、どうぞ」
「そんな。そんなのって……ゆるされるわけない」
女は病室の床にくずれ落ちてまた泣き出した。
俺はますますいたたまれない気持ちに襲われ、なんだか吐き気がしてきた。
こんなことになるのは目に見えていたんだ。俺はあの時からずっと考えていた。
あの日、陳さんの事務所「アカボロ萬相談所」へさえ行かなければ……こんなにも奇妙な、そして人間のおぞましさをこれでもかと味わされる羽目にはならなかったはずだ。けれど、俺がこれまでしてきたことを考えれば、ある意味仕方のないことなのかもしれない。
あれから1か月が経とうとしていた。
強い雨が降っていた。
台風の接近がニュースで騒がれていたが、ここH道まで被害が及ぶことはないだろうと俺は考えていた。ほとんどの台風はいつの間にか進路を変えてH道に上陸することはなかった。
台風ごときで生き死にの目に合うなんてことは、道民の人々には少しも想像できない。いずれその油断が大きな災害を引き起こすことになるかも知れない。
そんなことを考えながら、雨具を持たない俺は役に立たない傘をあきらめて陳さんの事務所へと急いだ。
「アカボロ萬相談所」は今にも崩れそうな雑居ビルの2階にあった。事務所の看板は段ボールにマジックで書かれていた。「なんでも解決、萬相談承ります」とも書かれていた。いかにも怪しさ満点だった。
中に入ると、狭い事務所の中、衝立の向こうに簡易ベッドのような二つの台に乗せられた山本愁一と堂上清太郎の姿があった。
「やあ。よく来たね。待ってたよ。ちょうど始めるところさ」
陳さんは満面の笑みで俺を迎えた。
事務所の奥にはよく漫画に出てくるようなしわくちゃの老婆が目を光らせて大仰な背もたれ付きの椅子に座っていた。
「あーあんたーなるほどーなるほどー血に染まった経験がーあるーねー」
歪んだ口をゆっくりと動かして老婆はつぶやいた。
俺は彼女を凝視して濡れた服の気持ち悪さもすっかり忘れていた。
続く




