デボン共和国
その日の朝もまた、橋本のうっとうしい声で起こされた。
「おはよーさん! みんな朝だぞ! 朝がきたぞ! みんなのアイドル・ハッシー橋本先生は、もう準備万端だ! 涙は心の汗! 先生と一緒に青春時代をエンジョイしよう!」
なぜ、朝からあんなにテンション高いのだろうか。これは、おそらく永遠にとけない謎だろう。もっとも、ときたくもないが……そんなことを思いつつ、天城は起床した。
朝食の時間になったが、橋本は昨日と変わらなかった。ラッパーのごとく、ひとりで喋り続けている。しかも、その標的は今日も天城なのだ。
「天城、お前の欲しいものはなんだ?」
「は、はい?」
いきなりの質問に、天城は顔を引きつらせる。この男の話題は、いつも想像の斜め上だ。
しかし、橋本の勢いは止まらない。
「あれか? 宇宙脱出ゲームとか、そんな奴か? それともスーパーマルセリーノか?」
意味がわからない。スーパーマルセリーノとは、果たして何なのだろう? ゲームの名前だろうか……天城は愛想笑いを浮かべつつ、違うと言おうとした。
その時、唐突に灰谷が口を開く。
「欲しいものがわからなくても困らない、これは幸せなことだと思いますがね」
「えっ?」
天城は、キョトンとなっていた。灰谷が、この状況で口を挟むのは珍しいことだ。
橋本もまた、同じことを感じたらしい。ポカンとしたまま、灰谷を見つめている。
その灰谷は、静かな口調で語り続ける。
「欲しいものが明確に存在する……これは、ある意味では不幸かもしれませんよ。欲しいものがあるのに、手に入れることができない。この状態に比べれば、欲しいものが何もない状態の方が幸せな気はします」
そう言うと、灰谷は天城と橋本のいる方に顔を向けた。
「欲しいものなどない、今のままでいい……そう言える人は、今の世の中では幸せですよ。ネットを見れば、否応なしに情報が飛び込んでくる。欲望を喚起され、あれも欲しいこれも欲しい……でも、手に入らない。まあ、これは物に限りませんがね」
そこで、灰谷はペコリと頭を下げる。
「ああ、これはどうも失礼しました。おふたりの会話を邪魔してしまったようですね。申し訳ありません」
そう言うと、灰谷は再び箸を動かす。つられて、天城も食事を再開した。
もっとも、頭の中には灰谷の言葉がのしかかっていた。
僕は、何も欲しくなかった──
そう、天城は何も必要なかった。ただ、平和に過ごせる場所と時間……それさえあれば、他に何もいらなかった。
なのに、その時間と場所は永遠に失われてしまった。そして今、ここにいる。
本来なら、こんな場所では居心地の悪さしか感じなかったはずだった。
しかし、今は違うものを感じている。それは、あいつのせいだ。
ふと、灰谷の方を見てみた。彼は、相変わらずの態度だ。既に食べ終え、窓の方を向いている。
灰谷の目には、何が見えているのだろう?
いや、何を見ているのだろう?
天城にとって、灰谷は謎の存在であった。
単に変な奴とか変わり者という類の人間なら、これまでにいくらでも見てきた。中には「俺って変わってるからー」と、ことさら変わり者アピールをする者もいた。
しかし、灰谷だけはレベルが違う。何もかもが、天城の周囲の人物とはかけ離れていた。
そう、彼の周囲の人間たちが重視してきたものは……常識や良識、善悪、愛、友情、金、学校の勉強や運動、不良か真面目か、ダサいかダサくないか、クラスの上下関係、モテるモテない、将来の夢や展望などなど。
そういった概念を、灰谷は完全に超越していた──
天城は、今も思い出すのだ。あの上山の突進に対し、跳び箱を飛ぶような動きで躱してしまった灰谷の姿を……しかも、その後は上山の巨体を簡単に転がしてしまった。
さらに、何事もなかったかのような表情で負けを認めていたのだ。
天城は、灰谷という男がわからなかった。全く理解不能な存在だ。
だからこそ、この男が学園で何をするのか……いや、何をしでかすのか見てみたかった。
朝食の後、山下は村上と中村を連れて行った。事務の手続きがあるらしい。食堂内は、天城と灰谷のふたりだけになった。
不意に、灰谷が話しかけてきた。
「ここの食事では、ちょくちょく焼き菓子が出ますよね。一日一回は、必ず出ます」
「えっ? あっ、うん。あれ、美味しいよね」
言われてみれば、その通りだ。あの焼き菓子は、なかなか美味しい。しかし、日本では見たことのないものだ。少なくとも、天城の地元では見たことがない。
どこで売っているのだろうか……と思ったが、灰谷がすぐに答えを出してくれた。
「あれね、デボン共和国のものなんですよ。ダレンニークという名前だそうです」
「デボン共和国? ダレンニーク?」
どちらも初耳である。ダレンニークなど、RPGの武器にありそうな名前だ。焼き菓子とは、程遠いイメージである。
一方、天城の反応を見た灰谷は、スッと目を細めた。
「デボン共和国という名前に、聞き覚えはありませんか?」
「いや、どこかで聞いたような……」
天城は言葉に詰まった。言われてみれば、聞いたような気はする。だが、どこで聞いたのだろうか。
と、灰谷が苦笑した……ように見えた。
「保健室にいたイリアナ先生ですが、彼女の出身地がデボン共和国です。あなたも、聞いていたのではないですか?」
「あっ……」
言われてみて、ようやく思い出した。そう、あのイリアナ先生が言っていたのだ。
(知らないんだ。じゃあ、教えてあげるね。デボン共和国というのは、東ヨーロッパの方にあるんだよ)
(先生の生まれた国でもあるんだよ)
「やっと思い出しましたか? あなたは、先生の綺麗な顔や魅惑的な肉体に気をとられていたようですね」
「ち、違うから! ぼ、僕は……」
そこで言葉に詰まった。確かに、自分はそちらの方に注目していたのだ。結果、聞いたはずの話を忘れていたのだ。
嘘のつけない性格である天城は、恥ずかしさで頬が赤くなっていた。
一方、灰谷は冷静に話を進めていく。
「まあ、あなたの反応も仕方ありません。あの先生は美人ですからね。しかし、問題はそこではない。この学園は、デボン共和国と深い繋がりがあるようなのですよ」
「そ、そうなんだ」
答えながら、天城はふと外で見かけた外国人のことを思い出していた。ドーベルマンをつれた欧米人だ。
あの男も、デボン人なのだろうか?
「ちなみにですが、デボン共和国のシャイア市と白土市は、友好都市となっています」
「友好都市?」
「はい。この事実は、ほとんど知られていないのですよ。調べればわかることですが、そもそも誰も調べないですからね。これが、ネットの限界なのですよ。自分の知りたい情報、もしくは自分にとって都合のいい情報しか入ってこないのです」
話が急に大きくなったな……と思っていると、そこで灰谷の表情が変わる。
「さて、あなたはどう思いますか?」
「な、何を?」
「デボン共和国という、ほとんど知られていない東ヨーロッパの小国のシャイア市が、この日本にある白土市と友好都市として提携関係にある。この事実を、あなたはどう思いますか……と、聞いているのです」
「どう思うって……な、なんか凄いんだな、としか……」
「まあ、九割以上の日本人が、あなたと同じ反応をするでしょうね」
そこで、灰谷は口を閉じた。しかし、ここで話を終わらせられてはたまらない。天城の好奇心は、既に動き始めているのだ。
灰谷に向かい、おずおずと尋ねる。
「ねえ、そのことに何の意味があるの? 君は、何を知っているの?」
「今は教えられません」
「えっ、なんで?」
「教えたところで、あなたは信じないでしょう。余計なトラブルも起こしたくありません。したがって、今は教えません。が、あなたはいずれ知ることになります」




