2-5
鑢さんの店を出たところで、人混みの中に穴を見つけた。
電球の下をいろんな明るさの人間が流れていく。その中に一箇所だけ、何も見えない場所がある。
あの夜、常磐座の裏の路地で拍手していた穴と同じだった。
白いフードが向かいの屋台の前で止まっている。
背は俺より低い。大きすぎる白いパーカーで、袖が指先まで隠れていた。フードを深くかぶっているのに、髪が収まりきっていない。色の薄い長い髪が一房、胸の前に垂れている。電球の光が透けて、金に近い色に見えた。
亜麻色、というんだと思う。
足もとだけが骨市に似合っていなかった。靴が新品だ。白い革がここの泥ではねたところだけ茶色くなっている。
屋台の店主は、首から下が古い作業用の義体の中年男だった。前歯が一本だけ金色をしている。作業用の腕は肘のところで塗装がはげて、下の錆止めの色が覗いていた。その男に向かって、白いフードが両手で封筒を差し出していた。
厚い封筒。口が開いていて、中の札が見えている。
骨市でいちばんやってはいけないことを、あの子は今やっていた。
「純正です。旧型で、ログは一切取りません」
店主が台の上の部品を指でつつく。耳の部品。聞いた音を電気に変える、小さな巻貝みたいな形のやつ。
「聞いたことを、どこにも残さない耳ですね」
確かめるように、白いフードが言った。
「そうです、そうです」
店主の流れが、そこでずれた。
嘘をつくと、人の流れは少しだけ揺れる。うまく説明できないけど、川の水が一瞬だけ逆に巻くような感じだ。継ぎ目と違って、こっちはいつも確かなわけじゃない。でも、この男の揺れは大きかった。
俺は屋台の前に出た。
「それ、取るやつだ」
店主が俺を見た。それから俺の後ろのコウを見て、もう一度俺を見た。
「なんだお前」
「鷲津警備」
店主の顔が少しだけ変わった。親父は骨市でも顔が売れているらしい。悪い意味で。
「……冷やかしなら帰んな」
店主は部品を台の下にしまった。
白いフードのほうを向いて、俺は封筒を指さした。
「しまって。ここで先に金を見せると、あとで全部なくなる」
白いフードは自分の封筒を見て、それからゆっくりポケットにしまった。言われたとおりに。素直だった。骨市の作法を一つも知らない子だ。
それから、俺を見上げた。
「指一本の人ですね」
フードの奥の顔がそこで初めて見えた。
同い年くらい。頬に赤みがあって、健康そうに見える。目は明るい茶色だった。
その目が俺に焦点を合わせる。瞳が段をつけて小さくなった。かち、かち、と音がしそうな絞り方。カメラのレンズみたいだった。
「あの夜、見てました。路地で」
「……知ってる」
知ってると言ってから、本当に知っていたのか自分でもわからなくなった。あの夜、人垣のいちばん後ろで一人だけこっちを向いていた穴。
「どうしてわかったんですか。さっきの」
「嘘つくと、流れがずれる」
「流れ」
「身体の。……見えるんだよ」
「私のは、ずれますか」
俺はその子を見た。
見ようとした。
何も見えない。継ぎ目はあるはずなのに、見えなかった。揃いすぎていて、どこが境目なのかわからない。流れもほとんどない。流れていないものは、ずれようがない。
怖い、と思った。
この街で俺に読めない人間は初めてだった。
あれくらい薄い通りの人を、俺は一人しか知らない。でもその人には、ちゃんと継ぎ目が見えた。
「……見えない」
正直に言うと、その子は笑った。
声を出して、肩を少しすくめて。どこにでもいる十七の笑い方だった。
それで少しだけ、怖くなくなった。
「私も、あなたが見えないんです」
その子は自分の目を指さした。
「この目、見た人の登録が重なって出るんです。さっきのお店の人なら、首から下が三社に分かれてて、二社は延滞してます」
さらっと言う。悪気はなさそうだった。
「あなたは、何も出ません」
瞳がまた段をつけて絞られた。
「どこにも載ってないんですね」
何と答えればいいのか、わからなかった。
どこにも載っていないことを、この街で珍しそうに言われたのは初めてだ。たいていは怪しまれる。
「指一本で、どうやって止めたんですか」
「止まるところを打っただけだ」
「止まるところ」
その子は袖から指先を出して、自分の手首を見た。
「私にも、ありますか」
「……わからない」
見えないものは、打てない。
コウが俺の裾を引いた。そろそろ行こう、ということらしい。その前に、訊きそびれていたことを訊いた。
「名前は」
その子は少し考えた。
「名前を言うと、残るので」
断られたのだと、少し遅れて気づいた。
「記録されない場所を探してるんです。ここなら、あるかと思って」
「ここは、値札だらけだよ」
俺は高架の下を顎で示した。手書きの札がどの棚にも下がっている。
「値札は、記録じゃないです」
真面目な顔でそう言ってから、その子は俺の鞄に目を留めた。口から帳面の背が覗いている。
「それは、記録ですか」
「帳面だ。うちの」
「誰が見るんですか」
「俺」
「ほかには」
少し考えた。親父は見ない。八重さんは見なくても知っている。
「誰も」
その子は少しだけうらやましそうな顔をした。……ように見えた。顔は読めても、流れは読めない。




