【番外編】メリーナの恋(前編)〜教官の特別授業〜
午後の暖かな日差しが差し込む教室で、私は頬頬を突いて大きな溜め息を噛み殺していた。
黒板に向かう教官の声は耳を通り抜け、私の意識は窓の外の青空へと向かっていく。
この学園において、孤児である私たちの未来は最初から一つに決められている。卒業後、軍隊へと派遣されること――それが逃れられない現実だ。
その先で死ぬか、あるいは手柄を立てて出世するか。女子生徒であれば、軍のお偉い方に見初められて結婚という形で前線から降りる道もあるらしい。
けれど、そんな与えられた未来に本気で期待したことなど一度もなかった。
私は自分で言うのも何だが、成績は常にトップクラスで容姿も悪くない自負がある。現に、今まで何人もの男子生徒から不器用な告白を受けてきた。
けれど、どれも私の心を動かすには至らなかった。同年代の男の子たちは、どこか幼く、子どもっぽく見えてしまっていたからだ。
(……でも、最近はちょっとだけ思うことがあるのよね)
私の脳裏に、幼馴染であるエミルとルディウスの顔が浮かぶ。
数々の紆余曲折を経て、ようやく恋人同士として結ばれた二人。その姿は心から微笑ましく、見ているこちらまで幸せな気持ちになる反面、ほんの少しだけ寂しかった。
なんだか自分一人だけが、子どものまま置いていかれたような、取り残されたような心地がして。
そんな思いに耽っていた、次の瞬間だった。
『チャリ……』
硬質な金属の音が机のすぐ脇で鳴り、私の頭上に落とされた濃厚な影。
はっと息をのんで顔を上げると、そこにはこの学園で最も恐れられている男――ダラス教官が、凍てつくような眼差しで私を見下ろしていた。
彼はまだ二十代半ばという若さでありながら、実戦で数々の功績を上げ、すでに軍の中尉の階級を持つ怪物だ。時折こうして特別教官として学園にやってくるのだが、まとった圧倒的な威圧感はとても二十代には見えない。
黒髪はポマードで隙なく撫でつけられ、鋭い一双の瞳は仕留める獲物を定める肉食獣のそれだった。一六〇センチの私では、一八〇センチを超える彼の巨躯を見上げる形になる。
「私の授業は、それほど退屈かね? メリーナ候補生」
低く重い声が頭上から降ってくる。
「そのような集中力では、現場に出た瞬間、命を落とすことになるぞ」
周囲の生徒たちが一斉に息をのむ気配がした。冷や汗を流す者、哀れみの視線を向けてくる者。
けれど、私は持ち前の気の強さから、カチンと胸の奥が熱くなった。
「お言葉ですが、ダラス教官。本日の講義内容はすでに予習済みであり、戦術理論に関してもすべて理解しております」
静まり返る教室。ざわめきが波のように広がった。
斜め前の席を見ると、エミルとルディウスが「正気か!?」と言わんばかりに顔を青ざめさせてこちらを見つめている。
(ふん! 怖くなんてないんだから! 正論を言われて引き下がるほど、生半可な勉強はしてないわ!)
ダラス教官はしばし無言のまま、私をじっと見下ろしていた。その冷酷な瞳の奥で、何かが小さく揺れた気がした。
「……放課後、空き教室に来なさい。反省文を書いてもらう」
それだけ言い残すと、彼は何事もなかったかのように教壇へと戻っていった。
私はむっと唇を尖らせながらも、「……わかりました」と短く返事をした。
チャイムが鳴り、授業が終わった途端、エミルとルディウスが飛ぶような勢いで私の席へやってきた。
「メリーナ、大丈夫!? いくらなんでもダラス教官に正面から言い返すなんて無茶だよ!」
ルディウスが本気で心配そうに眉をひそめる。
「そうだよメリーナ……ダラス教官、怒らせたら本当に恐ろしいって有名なんだから。俺たち、教室のすぐ近くまでついていこうか?」
エミルも不安そうに私の手をとってきた。
恐ろしい鬼教官相手に自分たちも震えているくせに、それでも私のために一肌脱ごうとしてくれる二人。
その真剣で健気な優しさが可笑しくもあり、愛おしくて、私は思わずくすりと微笑んでしまった。
「二人とも、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ! ササッと反省文なんて書いて、罰を受けてくるわ!」
強がり半分でそう言うと、二人はなおも心配そうに、けれど少しだけ安心したように息をついた。
やっぱり、私の自慢の幼馴染だ。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
放課後。西日が赤く染める空き教室へ向かうと、ダラス教官はすでに教壇の椅子に腰掛け、書類に目を通していた。
「……座りなさい。そこに羊皮紙とインクがある。自身の不遜な態度について、反省文を提出するように」
言われるがまま、私は教壇のすぐ目の前の机に腰を下ろした。
カラスペンを握り、不服ながらも反省文を書き進める。沈黙が支配する室内には、ペンの走るカリカリという音だけが響いていた。
(……なによ、予習してきたのは本当のことなのに)
ペンを走らせながらも、ふと肌を刺すような視線を感じた。
気のせいかと思い、何気なく教壇の方へと視線を向ける。
――そして、息が止まった。
ダラス教官が、書類から目を離し、じっと私を見つめていたのだ。
ただし、授業中のような冷徹な眼差しではない。
そこにあったのは、どこか熱を帯びた、射ぬくような、そして酷く濃密な男の視線だった。
(……え?)
普通なら、恐怖や不快感を覚える場面かもしれない。
けれど、私の胸を占めたのは全く別の感情だった。
これまで同年代の男子たちから向けられていた無邪気な好意とはまるで違う、大人な男性特有の「一人の女」として扱われているかのような重厚な視線。
(……悪くないかも)
背筋をゾクゾクと駆け上がる甘い毒のような感覚。
自分も少しだけ、大人な女性に近づけたような錯覚。
私は反省文を書く手を止め、悪戯が成功した子供のように、ふっと可憐に、けれど少しだけ背伸びした笑みをダラス教官へ向けてみた。
その瞬間――。
寡黙だった教官の眉がピクリと動き、椅子がギィと音を立てた。
彼はゆっくりと立ち上がると、教壇を降り、私の机へと歩み寄ってくる。
『チャリ……』
軍服のベルトが静寂に響く。
目の前に立った彼の影が私を完全に覆い尽くしたとき、見上げる体勢になった私は、自分が思っていた以上に激しく心臓を打っていることに気づかされたのだった。




