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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第9話 月曜日の秘密

月曜日の朝。


朝比奈湊は、いつもより少しだけ早く家を出た。


理由は特にない。


寝坊しなかったから。


朝食を早く食べ終えたから。


そう説明しようと思えばできる。


けれど本当は、少し落ち着かなかった。


土曜日のことが、まだ頭の中に残っていた。


駅前の本屋。


私服の雨宮。


自販機の缶コーヒー。


公園のベンチ。


三行の感想。


普通の休日になった。


雨宮が言ったその言葉を、湊は日曜日にも何度か思い出した。


別に大したことはしていない。


偶然会って、少し話しただけだ。


それでも、月曜日に教室で雨宮と会うことを少し意識している自分がいた。


どんな顔をすればいいのか。


普通でいい。


いつも通りでいい。


隣の席のクラスメイトとして、おはようと言えばいい。


そう分かっているのに、何となく落ち着かない。


電車に乗ると、いつもの時間より少し空いていた。


湊はドアの近くに立ち、スマホを開いた。


クラスLINEには、土曜日のカラオケの写真が何枚か送られていた。


藤堂がマイクを持っている写真。


誰かがピースしている写真。


駅前の店の前で撮った集合写真。


湊はその写真を見て、少しだけ不思議な気持ちになった。


自分はそこにいない。


けれど土曜日、自分も同じ駅前にいた。


あの近くで、雨宮と本屋にいた。


もし見つかっていたらどうなっていただろう。


からかわれただろうか。


説明するのが面倒だっただろうか。


それとも、意外と何も言われなかっただろうか。


考えても分からない。


ただ、あの時間がクラスLINEには残っていないことに、少しだけ安心した。


誰にも知られていない。


そう思うと、少し秘密みたいだった。


秘密というほど大げさなものではない。


でも、二人だけが知っている休日。


その響きは、湊には少し落ち着かなかった。


学校の最寄り駅に着くと、朝の空気は少しひんやりしていた。


桜はもうほとんど散っている。


四月は、始まったと思ったらすぐに普通の日常へ変わっていく。


湊は校門をくぐり、教室へ向かった。


教室に入ると、月曜日らしいだるさと、土曜日の話題の名残が混ざっていた。


「カラオケやばかったよな」


「藤堂、声でかすぎ」


「いや、あれは盛り上げただけ」


「次もっと人数集めようぜ」


そんな声が前の方から聞こえる。


藤堂はいつものように中心に近い場所で笑っていた。


湊に気づくと、手を上げる。


「朝比奈、おはよ。次は来いよ」


「おはよう。考えとく」


「絶対来るやつの返事じゃない」


倉田が横から言った。


「朝比奈、土曜何してたん?」


湊は一瞬だけ詰まった。


本屋。


雨宮。


公園。


その全部が頭をよぎる。


でも、言う必要はない。


「買い物」


「普通だな」


倉田が言う。


湊は少し笑った。


「普通だった」


そう答えた時、教室のドアが開いた。


雨宮栞が入ってきた。


制服姿。


いつもの鞄。


いつもの歩き方。


土曜日に見た私服の雨宮とは違う。


でも、同じ雨宮だった。


雨宮は自分の席へ来て、湊を見る。


一瞬だけ、目が合った。


「おはよう」


湊が言う。


「おはよう」


雨宮は普通に返した。


本当に普通だった。


その普通さに、湊は少し救われた。


雨宮は鞄を机にかけ、教科書を出す。


「本、読んだ?」


小さな声だった。


湊は少しだけ肩の力を抜いた。


土曜日の話をしていいらしい。


「まだ途中」


「前の?」


「前のは読み終わった。土曜に買ったやつが途中」


「早い」


「意外と読めた」


「感想は?」


「どっちの?」


「読み終わった方」


湊は少し考えた。


「三行?」


「三行」


「一行目。静かだった」


「前も聞いた」


「二行目。普通のことなのに残った」


「それも聞いた」


「三行目」


湊は少し迷ってから言った。


「最後、ちょっと分かった気がした」


雨宮は少しだけこちらを見る。


「何が?」


「特別なことがなくても、覚えてることってあるんだなって」


言ってから、湊は少し恥ずかしくなった。


朝の教室で言うには、少し真面目すぎたかもしれない。


雨宮はしばらく黙っていた。


それから、小さく頷いた。


「いい感想」


「雑じゃない?」


「ちゃんと言ってる」


「ならいいけど」


雨宮は少しだけ笑った。


その笑い方を見て、湊は土曜日の公園を思い出した。


同じ笑い方なのに、制服の教室ではまた違って見える。


朝のホームルームが始まるまでの間、クラスLINEの話題は続いていた。


藤堂がカラオケの話をして、女子たちが笑っている。


湊はそこに軽く相槌を打ちながら、自分がその場にいなかったことを少しだけ意識した。


でも、前ほど焦りはなかった。


行かなかったからといって、完全に置いていかれた訳ではない。


藤堂は普通に話しかけてくる。


倉田も三橋も変わらない。


世界は、思ったよりあっさりしている。


山崎が教室に入ってきて、出席を取った。


「はい、月曜日です。今週から本格的に授業進むんで、寝ないように」


藤堂が小さく「無理」と言い、近くの男子が笑った。


湊も少し笑う。


山崎は黒板に予定を書いた。


数学。


英語。


現代文。


昼休み。


午後は学年集会。


そして最後に、クラス写真の掲示確認。


「先週撮った写真、廊下に貼ってあるから、自分の顔が大丈夫か確認しておいてください。大丈夫じゃなくても大体そのままですが」


教室に笑いが起きる。


一時間目の数学で、小テストが返された。


湊は八十六点だった。


悪くない。


隣の雨宮は、答案を見て少しだけ眉を寄せている。


「どうだった?」


湊が小声で聞く。


「普通より少し下」


「何点?」


「七十二」


「普通にいいじゃん」


「朝比奈は?」


「八十六」


「できる側」


「たまたま」


「今度教えて」


「いいよ」


そう答えてから、湊は少しだけ嬉しくなった。


今度教えて。


その言葉が自然に出たことも、それに自分が自然に答えたことも。


数学の授業は小テストの解説から始まった。


藤堂は本当に危なかったらしく、答案を見て固まっていた。


倉田は「勘にしては取れた」と言っている。


三橋は淡々と間違えた箇所を直していた。


湊は授業を聞きながら、雨宮のノートをちらりと見た。


間違えた問題を丁寧に書き直している。


その横顔は真剣だった。


こういうところを見ると、雨宮は真面目だと思う。


でも、本人に言うと普通だと返されそうだった。


二時間目の英語。


ペアで会話練習をすることになった。


教師が「隣の人と」と言った瞬間、湊は少しだけ緊張した。


隣の人。


つまり雨宮。


今さら緊張するのも変だ。


何度も話している。


一緒に駅まで帰ったこともある。


土曜日に偶然会って、公園で話したこともある。


それなのに、授業で向かい合うだけで少し違う。


「じゃあ始めてください」


教室が一斉にざわつく。


湊と雨宮も机を少しだけ斜めにした。


教科書には簡単な会話文が載っている。


休日に何をしたかを尋ねる練習だった。


湊は内心で少し動揺した。


よりによって休日。


雨宮も気づいたのか、少しだけ目を伏せた。


「What did you do last weekend?」


雨宮が先に読んだ。


発音はやっぱり聞き取りやすい。


湊は教科書通りに答えようとして、一瞬だけ迷った。


本当なら、


I went shopping.


でいい。


でも土曜日のことを思い出してしまう。


「I went shopping.」


湊は無難に答えた。


雨宮が少しだけ笑った気がした。


次は湊の番。


「What did you do last weekend?」


雨宮は教科書を見ながら答える。


「I went to a bookstore.」


湊は思わず小さく笑いそうになった。


本当のことだ。


教師が近くを通ったので、二人とも真面目な顔に戻る。


会話練習は何度か続いた。


好きな食べ物。


得意な教科。


休日の予定。


どれも教科書通りの簡単な英語。


けれど湊には、二人だけが土曜日を思い出しているような気がして、少し落ち着かなかった。


休み時間。


藤堂が湊の机へ来た。


「朝比奈、英語余裕そうだったな」


「そんなことない」


「雨宮さんとめっちゃ普通に話してなかった?」


湊は少しだけ身構えた。


「隣だからな」


「そういうもん?」


「そういうもん」


藤堂は特に深く追及するでもなく、「俺、英語で休日聞かれてカラオケって言えなかった」と話題を変えた。


湊は心の中で息を吐いた。


気にしすぎだ。


たぶん周囲は、湊が思っているほど湊と雨宮のことを見ていない。


それでも、少し怖くなる。


からかわれる前に距離を取ろうとする自分がいる。


土曜日に雨宮に言った通りだった。


何か言われる前に、言われないように動く。


それは癖になっている。


昼休み。


湊は藤堂たちと机を合わせて弁当を食べた。


話題は土曜日のカラオケだった。


藤堂の歌が意外とうまかったとか、クラスの女子の一人がものすごく歌い慣れていたとか、駅前の店が思ったより高かったとか。


湊はその話を聞きながら、適当に笑った。


知らない話題でも、聞いているだけなら輪に入れる。


それも一つの混ざり方だった。


「次は朝比奈も来いよ」


藤堂が言う。


「タイミング合えば」


「それ断るやつ」


「いや、ほんとに」


「じゃあ今度は少人数で行くか」


倉田が言った。


「大人数疲れるし」


湊は少し驚いた。


倉田もそう思うのか。


大人数が苦手なのは、自分だけではないらしい。


「それなら行きやすいかも」


湊が言うと、藤堂は「じゃあ決まり」と軽く言った。


何が決まったのか分からない。


でも、その軽さはありがたかった。


昼休みの終わり頃、湊は飲み物を買いに廊下へ出た。


自販機は階段の近くにある。


財布を出しながら歩いていると、前方に雨宮がいた。


同じく自販機の前。


土曜日の公園を思い出す。


湊が近づくと、雨宮が振り返った。


「朝比奈」


「また自販機」


「学校だけどね」


「今日はコーヒーやめとく」


雨宮が少し笑った。


「無理しないんだ」


「成長した」


「それは成長」


湊は紙パックのミルクティーを買った。


雨宮はお茶だった。


「土曜のこと」


雨宮が小さく言った。


湊は少しだけ緊張する。


「うん」


「別に、秘密にしようとかじゃないけど」


「うん」


「わざわざ言うことでもないよね」


湊は頷いた。


「俺もそう思う」


「ならいい」


雨宮はペットボトルを持ち直した。


「でも、面白かった」


「何が?」


「朝比奈がコーヒーで無理してたの」


「そこかよ」


「うん」


湊は笑った。


それで少しだけ空気が軽くなった。


秘密というほど重くない。


隠している訳でもない。


でも、二人だけが知っていること。


そのくらいでいいのかもしれない。


午後の学年集会は眠かった。


体育館に集められ、進路や生活指導の話を聞く。


高校に入ってまだ一週間なのに、もう進路の話をされるのかと思った。


将来。


大学。


就職。


夢。


そういう言葉は、湊にはまだ遠かった。


今は、明日の教室のことで精一杯だ。


隣に座っていた藤堂は半分寝ていた。


倉田も危ない。


三橋だけはちゃんと聞いている。


湊も途中から集中が切れた。


視線を少し前へ向けると、女子の列に雨宮が見えた。


姿勢は普通。


でも、たぶん少し眠そうだった。


そう思った瞬間、雨宮が小さくあくびをした。


湊は笑いそうになって、慌てて前を向いた。


放課後。


廊下にはクラス写真が貼り出されていた。


一年一組。


全員が並んでいる。


湊は自分の顔を探す。


前から二列目の端の方。


普通の顔をしている。


可もなく不可もなく。


写真でも普通だった。


「朝比奈、顔硬い」


隣に来た雨宮が言った。


「そういう雨宮は?」


湊は雨宮を探す。


後ろの方にいた。


確かに、普通の顔をしている。


笑っているような、いないような。


「雨宮も硬い」


「普通」


「写真でも普通か」


「大事」


二人で少し笑った。


その時、藤堂が後ろから来た。


「お、二人で写真チェック?」


湊は一瞬だけ固まった。


雨宮は普通に答えた。


「顔が大丈夫か確認してた」


「俺どう?」


藤堂が自分を指さす。


写真の中の藤堂は、やたら笑顔だった。


「楽しそう」


雨宮が言う。


「だろ。朝比奈、もっと笑えよ」


「急に言われても」


「高校生活楽しいです、みたいな顔しろ」


「写真で?」


「そう」


湊は少し笑った。


藤堂はそれ以上何も言わず、倉田たちの方へ行った。


湊は少しだけ息を吐く。


雨宮が小さく言った。


「大丈夫だったね」


「何が?」


「からかわれなかった」


湊は驚いて雨宮を見る。


雨宮は写真を見たままだった。


「顔に出てた」


「そんなに?」


「少し」


湊は苦笑した。


「俺、分かりやすい?」


「たぶん」


「最悪」


「普通」


「それで済ませるな」


雨宮は少しだけ笑った。


放課後の帰り道。


今日は部活見学へ行く気分ではなく、湊はそのまま帰ることにした。


雨宮も同じだった。


二人で駅へ向かう。


月曜日の夕方は、少し疲れている。


週の始まりなのに、もう疲れているのはどうかと思うが、仕方ない。


「今日」


雨宮が言った。


「ん?」


「英語の休日のやつ、ちょっと笑いそうになった」


「俺も」


「本屋って言ったら、朝比奈が変な顔した」


「してない」


「してた」


「雨宮も笑ってただろ」


「少し」


湊は笑った。


駅へ向かう道に、春の風が吹く。


もう桜は散っている。


でも、道端にはまだ花びらが残っていた。


「なんか」


湊が言う。


「うん」


「土曜に会ったのが、今日変な感じだった」


「変?」


「学校でも会うのに、学校じゃないところで会ったから」


雨宮は少し考えた。


「分かる」


「制服じゃないのも変だった」


言ってから、湊は少し焦った。


変な意味に聞こえないか。


雨宮は特に気にした様子もなく言った。


「朝比奈も私服だった」


「まあ、休日だし」


「普通だった」


「褒めてる?」


「普通」


「やっぱりそれか」


二人で笑う。


駅に着き、ホームに立つ。


電車を待つ間、クラスLINEがまた動いた。


藤堂が写真に落書きした画像を送っている。


倉田がそれに突っ込んでいる。


湊はスマホを見ながら笑った。


雨宮も同じ画面を見ていた。


「クラス、少し慣れてきたね」


雨宮が言った。


「うん」


「朝比奈も」


「雨宮も」


「そうかな」


「うん。最初より話してる」


雨宮は少しだけ黙った。


それから言った。


「朝比奈が隣だからかも」


湊は一瞬、返事ができなかった。


電車の到着を知らせる音が鳴る。


ホームに風が入る。


雨宮は何でもないことのように前を向いていた。


湊は少し遅れて言った。


「それは……俺もかも」


雨宮がこちらを見る。


ほんの少しだけ、目が合う。


電車が来た。


会話はそこで切れた。


二人は電車に乗る。


車内は少し混んでいた。


並んで立つ。


肩が近い。


でも今日は、前より少し落ち着いていた。


雨宮の降りる駅まで、二人はほとんど話さなかった。


でも、その沈黙は嫌ではなかった。


言わなくてもいいことが増えた気がした。


雨宮が降りる時、いつものように言った。


「また明日」


湊も返す。


「また明日」


扉が閉まる。


雨宮がホームで小さく手を上げる。


湊も手を上げる。


電車が動き出した後、湊は窓の外を見ながら思った。


月曜日の教室。


土曜日の本屋。


自販機。


クラス写真。


英語の会話。


どれも普通の出来事だ。


でも、雨宮と共有すると、少しだけ形が変わる。


誰かに話すほどではない。


でも、自分の中には残っていく。


そんな小さな出来事が、少しずつ増えている。


湊は鞄の中の本を思い出した。


まだ途中の本。


今日帰ったら、続きを読もう。


そして明日、また三行くらい感想を言えばいい。


それだけで、明日の学校が少しだけ嫌ではなくなる。


湊はそのことに気づいて、少しだけ笑った。

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