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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第8話 土曜日の駅前

土曜日の朝、朝比奈湊はいつもより遅く起きた。


目覚ましはかけていなかった。


高校に入ってからの一週間は、思っていた以上に疲れていたらしい。目を開けた時、部屋のカーテンの隙間から入る光はすっかり明るくなっていて、スマホの画面には十時二十一分と表示されていた。


「寝すぎた」


そう呟いてから、湊はしばらく布団の中でぼんやりした。


土曜日。


学校がない。


中学の頃なら、その事実だけでかなり気が楽だった。


朝からゲームをして、昼に適当にご飯を食べて、夕方まで動画を見て、夜にまたゲームをする。


そんな一日。


別に悪くはない。


でも、何かが残る訳でもない。


気づけば終わっている休日。


湊の中学生活は、平日だけでなく休日も普通だった。


予定がないことに慣れていた。


誰かに誘われることも少ない。


自分から誘うこともない。


一人で過ごすのは嫌いではないが、たまに思う。


みんなは今、何をしているのだろう。


どこかへ出かけているのだろうか。


誰かと会っているのだろうか。


自分だけが、何もない一日を過ごしているのではないか。


そんなことを考えて、考えたくなくなって、ゲームを始める。


それが今までの休日だった。


湊はスマホを手に取った。


クラスLINEには、朝から通知が溜まっていた。


昨日話していたカラオケの件だ。


『今日十三時駅前集合でいい?』


『いける』


『遅れるかも』


『女子何人来る?』


『藤堂歌うまいの?』


『普通』


『普通って一番怖い』


湊は画面を眺めた。


昨日の放課後、雨宮と一緒に帰ったことで、カラオケには行かない流れになった。


正確には、行かないと決めた訳ではない。


ただ、その場で返事をしなかった。


そして返事をしないまま、話は進んでいた。


今から「行く」と送ることもできる。


でも、それは少し勇気がいる。


すでにメンバーが決まり始めているところへ後から入るのは、妙に気まずい。


湊はスマホを伏せた。


行かなくてもいい。


クラス全員参加ではないし、行ったからといって急に仲良くなる訳でもない。


そう思う一方で、少しだけ悔しい気持ちもあった。


高校生活を変えたいと思っていたのに、こういう時に一歩踏み出せない。


中学の頃と同じだ。


湊はベッドから起き上がり、机の上に置いていた文庫本を見た。


雨宮に選んでもらった本。


まだ最後まで読んでいない。


昨日の夜も少し読んだが、眠気に負けた。


湊は本を手に取り、ページを開いた。


読み始めると、思ったよりすぐに物語へ戻れた。


放課後。


帰り道。


寄り道。


主人公とヒロインが、少しずつお互いに近づいて行く。


何か大きな事件がある訳ではない。


ただ、同じ時間を過ごしているうちに、相手の言葉や表情が気になっていく。


湊は途中で本を閉じた。


なんとなく、読み進めるのが恥ずかしくなった。


自分が今読んでいる話と、自分の高校生活を重ねてしまって。


馬鹿みたいだと思う。


湊と雨宮は、まだただのクラスメイトだ。


隣の席。


駅まで一緒に帰ることが何度かあった。


本を選んでもらった。


シャーペンを借りた。


その程度。


恋愛小説の登場人物みたいに、特別な関係ではない。


湊は本を閉じたまま、スマホをもう一度見た。


クラスLINEはさらに動いている。


藤堂から個別ではなく、班のグループにもメッセージが来ていた。


『朝比奈今日カラオケ来ない?』


湊は少し固まった。


個別ではない。


四班グループだ。


倉田が返している。


『俺は寝る』


三橋。


『今日は用事ある』


藤堂。


『全滅かよ』


湊は画面を見つめた。


返すなら今だ。


行くなら行く。


行かないなら行かない。


ここで既読無視すると、また少しだけ気まずくなる。


湊は文字を打った。


『今日はやめとく』


送信。


すぐに藤堂から返事が来た。


『おけ。また今度な』


軽い。


本当に軽い。


湊は少しほっとした。


断っても、世界は終わらない。


中学の頃もそうだったのかもしれない。


自分が勝手に重く考えていただけで、相手はそんなに気にしていなかったのかもしれない。


湊はスマホを置き、部屋を出た。


昼前、母に頼まれて駅前まで買い物に行くことになった。


「ついでに本屋寄ってきたら?」


母が言った。


「なんで」


「昨日、本読んでたから」


「たまたま」


「たまたまでもいいじゃない」


湊は少しだけ迷ったが、外に出ることにした。


家にいても、たぶんスマホを見て、本を少し読んで、またスマホを見るだけになる。


駅前までは電車で二駅。


学校と同じ方向だった。


土曜日の電車は、平日とは少し違う。


制服姿の学生もいるが、私服の人も多い。


親子連れ。


買い物に行く人。


部活帰りらしい中学生。


湊は窓の外を見ながら、少し不思議な気持ちになった。


平日なら高校へ向かう時間。


今日はただの休日。


同じ駅でも、目的が違うだけで少し違って見える。


駅前に着くと、思ったより人が多かった。


ファストフード店の前には高校生らしい集団がいる。


ゲームセンターの入り口から音が漏れている。


本屋の前では、誰かが待ち合わせをしている。


高校に入ってから、駅前の風景が少し身近になった。


ここは自分の生活圏ではなかった。


けれどこれから三年間、何度も通る場所になる。


そう考えると、少しだけ世界が広がった気がした。


母に頼まれた買い物を済ませ、湊は本屋へ向かった。


大型の本屋だった。


中学の頃にも来たことはあるが、あまり小説コーナーへは行かなかった。


漫画売り場。


雑誌。


参考書。


それくらい。


でも今日は、自然と文庫本の棚へ向かった。


雨宮に選ばれた本と同じ出版社の棚を探す。


似たような表紙の本が並んでいる。


青春。


恋愛。


日常。


湊は背表紙を見ながら、自分がこういう棚にいることに少し違和感を覚えた。


誰かに見られたら恥ずかしい。


そう思って周囲を見た瞬間、見覚えのある姿が目に入った。


雨宮栞だった。


湊は一瞬、固まった。


雨宮は私服だった。


白っぽいシャツに、薄い色のカーディガン。下は長めのスカートで、全体的に目立つ服装ではない。


制服の時と同じで、特段可愛いという訳ではないが、普通の女子、という感じだ。


けれど。


学校で見る雨宮とは、少し違って見えた。


当たり前だ。


私服なのだから。


髪型も少しだけ違う。


いつもより柔らかく見える。


湊はすぐに声をかけるべきか迷った。


休日の本屋。


偶然会ったクラスメイト。


しかも相手は女子。


声をかけるのが自然なのか、不自然なのか分からない。


気づかないふりをして通り過ぎることもできる。


でも、それはそれで変だ。


湊が迷っていると、雨宮の方が先に気づいた。


目が合う。


雨宮も少し驚いた顔をした。


「朝比奈?」


「……雨宮」


お互い、少し声が小さかった。


本屋だからというより、偶然に驚いたせいだ。


「何してるの」


雨宮が聞いた。


「買い物のついで」


「本?」


「まあ、ちょっと」


「珍しい」


「雨宮が選んだ本、読んだから」


「あ、読んだんだ」


「まだ途中だけど」


雨宮は少しだけ笑った。


学校で見る笑い方と同じなのに、私服だからか少し違って見える。


湊は視線をどこに置けばいいか分からなくなった。


「雨宮は?」


「本買いに来た」


「それは分かる」


「それ以上ない」


「休日も普通に本屋来るんだな」


「普通に来る」


「普通か」


二人で少し笑った。


それで会話が途切れた。


周囲には本を選ぶ人がいる。


レジの方から袋の音が聞こえる。


店内放送が小さく流れている。


湊は何か言わなければと思った。


でも何を言えばいいか分からない。


学校なら、授業やクラスの話がある。


駅までなら、帰り道の流れがある。


でも休日の本屋で偶然会った時の正解は分からない。


雨宮も少し迷っているように見えた。


先に口を開いたのは雨宮だった。


「感想、三行」


「ここで?」


「うん」


「急だな」


「忘れる前に」


湊は少し考えた。


「えっと」


雨宮は待っている。


「一行目。思ったより読みやすい」


「うん」


「二行目。あんなふうに会話出来たらなって思った」


「聞いた」


「三行目……」


湊は少し詰まった。


三行目。


何を言えばいい。


面白かった、でいいのか。


でもそれは少し違う。


湊は本棚を見ながら、ぽつりと言った。


「普通なのに、なんか残る」


雨宮は少し黙った。


それから、小さく頷いた。


「いい感想」


「ほんと?」


「うん。三行目が特に」


湊は少しだけ嬉しくなった。


作文を褒められた小学生みたいだと思った。


でも嬉しいものは嬉しい。


「雨宮は何買うの?」


湊が聞くと、雨宮は手に持っていた本を見せた。


小説が二冊。


どちらも湊の知らない作家だった。


「そんなに読むんだ」


「普通」


「その普通、俺とは違う」


「朝比奈も読めば普通になる」


「ならない気がする」


雨宮は棚を少し見てから、一冊を抜き取った。


「これも読みやすいよ」


「また恋愛もの?」


「違う。たぶん」


「たぶん?」


「分類は青春」


「ざっくりしてるな」


雨宮はその本を湊へ差し出した。


湊は受け取る。


表紙には駅のホームが描かれていた。


タイトルは短く、少し寂しい感じがした。


「買えってこと?」


「別に。気になったら」


「じゃあ、買ってみる」


言ってから、自分でも少し驚いた。


本を買うつもりなんてなかった。


なのに、雨宮に勧められると、買ってみようと思っている。


単純すぎる。


でも、悪くない。


レジへ向かう流れになった。


二人並んで歩く。


学校では何度も並んで歩いているはずなのに、休日の本屋だと少し違った。


知り合いに見られたらどう思われるだろう。


同じクラスの誰かがいたら。


そう考えて、湊は少し周囲を見た。


「何?」


雨宮が聞く。


「いや、知ってる人いたら気まずいかなって」


「なんで?」


「なんでって」


湊は言葉に詰まる。


雨宮は普通の顔をしていた。


「本屋で会っただけじゃん」


「まあ、そうだけど」


「朝比奈、考えすぎ」


「よく言われる」


「誰に?」


「自分に」


雨宮は少しだけ笑った。


レジで本を買い、店を出る。


駅前の空気は少し暖かかった。


土曜日の昼過ぎ。


制服ではなく私服の人が多い。


ファストフード店の前では、高校生の集団が楽しそうに話している。


もしかしたら、クラスのカラオケ組もこの近くにいるかもしれない。


そう思った瞬間、藤堂の声が聞こえた気がした。


湊は反射的にそちらを見た。


駅前の広場。


少し離れた場所に、見覚えのある集団がいた。


藤堂。


倉田はいない。


同じクラスの男子数人。


女子も何人かいる。


たぶんカラオケへ行くメンバーだ。


湊は一瞬、体が固まった。


雨宮もその集団に気づいたようだった。


「クラスの人?」


「たぶん」


「カラオケの」


「うん」


距離は少しある。


向こうはこちらに気づいていない。


湊はなぜか焦った。


雨宮と二人でいるところを見られたら、何か言われるかもしれない。


別に何もない。


本屋で偶然会っただけだ。


でも、そう説明したところで、からかわれる可能性はある。


付き合ってるの?


デート?


そういう言葉が頭に浮かぶ。


まだ何もないのに。


何もないからこそ、そう言われるのが嫌だった。


雨宮は湊の様子を見て、小さく言った。


「気になる?」


「……少し」


「じゃあ、こっち行く?」


雨宮は駅の反対側を指した。


そこには小さな公園と、自販機がある通りが続いている。


湊は少し迷った。


逃げるみたいだ。


でも、今あの集団に見つかるのは避けたい。


「悪い」


「別に」


二人は駅前広場を避けるように歩いた。


湊は少し情けなかった。


雨宮に気を遣わせている。


こんなことで動揺している自分が嫌になる。


公園の近くまで来ると、人通りは少し減った。


ベンチがいくつかあり、小さな子どもが遊具で遊んでいる。


雨宮が自販機の前で足を止めた。


「飲み物買う」


「あ、俺も」


二人で自販機を見上げる。


雨宮はお茶を選んだ。


湊は缶コーヒーを買った。


普段はあまり飲まない。


少し大人っぽい気がしたから選んだだけだ。


一口飲んで、少し後悔した。


苦い。


雨宮がそれを見て言った。


「無理してる?」


「してない」


「顔」


「苦いだけ」


「無理してる」


湊は諦めて笑った。


「ちょっと大人ぶった」


「高校生っぽい」


「高校生はコーヒー飲むの?」


「知らない」


「適当だな」


雨宮はお茶を飲みながら、小さく笑った。


公園のベンチに座る流れになった。


距離は少し空けた。


隣に座っているだけ。


それでも湊は、少し落ち着かなかった。


休日に女子とベンチに座っている。


たとえ偶然でも、自分の人生ではかなり珍しい出来事だった。


「さっき」


雨宮が言った。


「ん?」


「見られるの、嫌だった?」


湊はすぐに答えられなかった。


嫌だった。


でも、それをそのまま言うと雨宮を嫌がっているみたいに聞こえるかもしれない。


「雨宮といるのが嫌とかじゃなくて」


先にそう言った。


雨宮は頷いた。


「うん」


「なんか、からかわれるのが面倒というか」


「分かる」


「まだ何もないのに、変に言われるの嫌だなって」


言ってから、湊は少し焦った。


まだ何もない。


その言い方も変かもしれない。


何かある前提みたいだ。


雨宮は特に表情を変えなかった。


ただ、ペットボトルの蓋を閉めた。


「分かるよ」


それだけ言った。


湊は少し安心した。


「雨宮は平気なのかと思った」


「平気じゃないよ」


「そうなの?」


「平気そうに見えるだけ」


雨宮は公園の遊具の方を見ていた。


風で髪が少し揺れる。


「私も、変に言われるのは嫌」


「だよな」


「でも、朝比奈が気にしすぎて疲れそうだなとは思った」


「それは否定できない」


湊は缶コーヒーを見つめた。


まだ半分以上残っている。


「中学の時からそうだった。何か言われる前に、言われないように動くっていうか」


「空気読む?」


「うん。読みすぎて、結局何もしない」


自分で言って、少し刺さった。


まさにそれだった。


高校から変わりたいと思っていたのに、今日もカラオケを断った。


本屋で雨宮と会っただけなのに、クラスメイトの目を気にして避けた。


何も始まる前から、失敗しないように動いている。


雨宮は少し考えてから言った。


「でも、今日は本買ったじゃん」


「え?」


「自分では選ばなそうな本」


湊は手元の袋を見た。


確かにそうだ。


雨宮に勧められたとはいえ、買ったのは自分だ。


「それは変わったことになる?」


「少しは」


「小さいな」


「小さい方が続くんじゃない?」


湊は雨宮を見た。


雨宮は相変わらず普通の顔をしている。


でも、言葉は妙に残る。


「雨宮って、たまに先生みたいなこと言うな」


「嫌だ」


「嫌なんだ」


「先生っぽいのは嫌」


「じゃあ何っぽい?」


「普通の女子」


即答だった。


湊は笑った。


「そこは譲らないんだ」


「うん」


少し沈黙が落ちた。


公園では子どもが走っている。


遠くから車の音が聞こえる。


駅前の賑やかさが、少しだけ遠い。


湊は缶コーヒーをもう一口飲んだ。


やっぱり苦かった。


「朝比奈」


雨宮が言った。


「ん?」


「さっきの、別に逃げたって思わなくていいと思う」


「え?」


「面倒なこと避けただけでしょ」


「まあ」


「それも普通」


普通。


またその言葉。


でも今日は、少しだけ違って聞こえた。


湊は小さく頷いた。


「そっか」


「うん」


雨宮は立ち上がった。


「そろそろ帰る」


「あ、うん」


二人で駅へ戻る。


クラスの集団はもういなかった。


カラオケへ行ったのだろう。


湊は少しほっとして、少しだけ寂しくもあった。


自分はあの場にはいない。


でも、別の場所にいた。


雨宮と偶然会って、本を買って、公園で少し話した。


それはカラオケとは違う。


でも、何もなかった休日ではない。


駅のホームで電車を待つ。


今日は学校帰りではないから、二人とも私服だ。


それだけで少し不思議だった。


「本、読んだら感想」


雨宮が言う。


「また三行?」


「うん」


「雨宮も俺に感想言うの?」


「何の?」


「今日の」


雨宮は少しだけ目を丸くした。


それから、考えるように視線を上げた。


「一行目。本屋で朝比奈に会った」


「うん」


「二行目。コーヒーで無理してた」


「そこ入れる?」


「三行目」


雨宮は少しだけ笑った。


「普通の休日になった」


湊は何も言えなかった。


その言葉が、思ったより胸に残った。


普通の休日。


たぶん、そうだ。


特別なことはしていない。


本屋で会って、自販機で飲み物を買って、公園で話した。


それだけ。


でも湊にとっては、普通ではなかった。


少なくとも、中学の頃の自分にはなかった休日だった。


電車が来る。


雨宮の方が先に乗った。


湊も続く。


車内は空いていて、二人は少し離れて座った。


雨宮は窓の外を見ている。


湊は手元の袋を見た。


雨宮に選ばれた本。


自分で買った本。


たった一冊。


でも、何かが少し変わった証拠みたいに思えた。


雨宮の降りる駅が近づく。


「じゃあ、また月曜」


雨宮が立ち上がる。


「うん。また月曜」


その言葉は、学校帰りと同じだった。


でも今日は少し違う。


休日に会って、それでも月曜にまた教室で会う。


それが不思議で、少し嬉しかった。


扉が開き、雨宮が降りる。


ホームで一度だけ振り返り、小さく手を上げた。


湊も手を上げる。


扉が閉まる。


電車が動き出す。


湊は窓の外を流れる景色を見ながら、静かに息を吐いた。


カラオケには行かなかった。


大人数の輪には入らなかった。


でも、今日が何もない休日だったとは思わなかった。


普通の恋なんて、まだどこにもない。


でも。


普通じゃないくらい、普通の休日だった。

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