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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第7話 既読

雨宮から借りた本を、朝比奈湊はその日の夜に開いた。


正直、読むかどうか少し迷っていた。


本を読む習慣はあまりない。


漫画なら読む。


スマホも見る。


動画も見る。


でも、小説は別だった。


ページをめくるのに時間がかかるし、途中で眠くなるし、何より“ちゃんと読まなきゃ”という気持ちになる。


それが少し苦手だった。


けれど今回は、雨宮が選んだ本だった。


読まなかったら感想も言えない。


三行感想。


あの約束を、湊は意外と覚えていた。


ベッドに寝転び、部屋のライトを少し暗くする。


表紙を眺める。


静かなタイトル。


制服姿の後ろ姿。


いかにも青春小説っぽい。


湊は少しだけ気恥ずかしくなった。


こういう本を読む自分が、まだしっくりこない。


ページを開く。


最初の数行を読んで、思った。


意外と読みやすい。


難しい言葉は少ない。


会話も多い。


静かな話だった。


特別な事件は起きない。


ただ、高校生の男女が話して、帰って、また話す。


それだけ。


でも、不思議と読み進められる。


気づけば、湊は三十分以上ページをめくっていた。


母が部屋の前を通りかかり、少し驚いた声を出す。


「珍しい。勉強?」


「違う」


「本?」


「……まあ」


「高校入って急に文化系になった?」


「うるさい」


母は笑いながら去っていった。


湊は少しだけ恥ずかしくなり、本へ視線を戻す。


静かな文章だった。


でも、ところどころ、引っかかる。


その男女に自分と雨宮を重ねて、会話を続ける描写。


それでも、完全には重ねられなくて。


ページを閉じたのは、日付が変わる少し前だった。


全部は読んでいない。


でも、半分以上進んでいた。


思ったより面白い。


湊はスマホを手に取った。


クラスLINEの通知がまた増えている。


藤堂が部活の写真を送っていた。


『筋肉痛で死ぬ』


倉田が返している。


『まだ入ってないだろ』


三橋。


『見学だけで筋肉痛になるな』


相変わらず騒がしい。


湊は少し笑いながら画面を閉じた。


その時、ふと思う。


雨宮に感想を送るべきだろうか。


いや、まだ全部読んでいない。


それに、個人で送るほどでもない。


そもそも連絡先を交換していない。


クラスLINEはある。


でも個人LINEはない。


そこまでの関係ではない。


……ない、はずだ。


湊はスマホを伏せた。


ただ、少しだけ。


本を読んだあとに雨宮のことを考えている自分がいた。


金曜日の朝。


一週間最後の日。


湊は眠かった。


昨日、思ったより遅くまで本を読んでしまったせいだ。


電車に揺られながら、湊はぼんやり窓の外を見る。


高校生活最初の一週間。


長かったような、短かったような。


まだ完全に慣れた訳ではない。


でも、少しずつ“学校へ行く感覚”が変わってきている。


それは間違いなかった。


次の駅で、雨宮が乗ってきた。


今日はすぐに湊を見つけたらしい。


「眠そう」


開口一番それだった。


「昨日ちょっと」


「ゲーム?」


「本」


雨宮が少しだけ目を丸くした。


「読んだの?」


「半分くらい」


「早い」


「思ったより読めた」


「で?」


「で?」


「感想」


湊は少し考えた。


感想。


ちゃんと言葉にするのは難しい。


でも、何も言わないのも違う気がした。


「静かだった」


「うん」


「でも、なんか読みやすかった」


「うん」


「あと……」


湊は少し迷った。


電車の揺れが足元に伝わる。


「あんなふうに会話出来たらなって思った」


雨宮は少しだけこちらを見た。


「なんで?」


「お互いの関係が凄くいいなって」


「そうだね」


「雨宮はそう思わなかった?」


湊が聞くと、雨宮は少しだけ笑った。


「思ってるんじゃない?」


「ずいぶん曖昧だね?」


「どうだろ」


その曖昧な答えが、少しだけずるいと思った。


でも、嫌ではなかった。


学校へ向かう道。


今日は朝から風が強かった。


女子のスカートが揺れて、男子の制服の裾がばたつく。


湊は前を歩く上級生たちを見ながら言った。


「一週間早かったな」


「うん」


「まだ全然慣れてないけど」


「それも分かる」


雨宮は鞄の紐を握り直しながら歩く。


「でも、最初よりは楽」


「高校?」


「教室」


その言葉に、湊は少しだけ嬉しくなった。


自分だけじゃない。


雨宮も、最初より楽になっている。


それが何となく安心した。


教室へ入る。


金曜日の朝の空気は少し緩んでいた。


一週間の終わり。


みんな、少しだけ疲れている。


藤堂は机に突っ伏していた。


「無理」


「毎日言ってるな」


湊が言うと、藤堂は顔だけ上げる。


「朝比奈、部活入る?」


「まだ迷ってる」


「バスケ来いよ」


「絶対きつい」


「青春できるぞ」


「最近みんな青春って言うな」


倉田が後ろから言った。


「高校生の免罪符だからな」


「意味分からん」


「だって青春って言っとけば何でも許されそうじゃん」


「許されないだろ」


三橋が冷静に返す。


そのやり取りを聞きながら、湊は少し笑った。


こういう空気にも慣れてきた。


誰かが話して、誰かが突っ込んで、誰かが笑う。


その輪の中に自分がいる。


たった一週間前なら、想像できなかった。


一時間目。


現代文。


昨日の続きで、短い随筆を読む授業だった。


先生が教科書を開かせ、生徒に順番で読ませる。


湊はこういう音読が少し苦手だった。


自分の声が教室に広がる感じが落ち着かない。


順番が近づく。


前の列。


後ろの列。


隣。


雨宮の番。


雨宮は淡々と読んだ。


声は大きくない。


でも聞き取りやすい。


変に感情を乗せる訳でもなく、自然に読んでいる。


次、湊。


少し喉が乾く。


湊は教科書へ視線を落とし、そのまま読み始めた。


噛まなかった。


変な間も空かなかった。


それだけで少し安心する。


読み終わって席に座ると、雨宮が小さく言った。


「聞きやすかった」


「ほんと?」


「うん」


「雨宮の方がうまいだろ」


「普通だよ」


「便利だな、その言葉」


雨宮は少し笑った。


二時間目の休み時間。


藤堂たちは購買の話で盛り上がっていた。


「今日メロンパン絶対買う」


「昨日も言ってた」


「昨日は負けた」


「戦いなんだ」


湊はその会話を聞きながら、スマホを見た。


クラスLINEにまた通知が来ている。


誰かが土日の予定を聞いていた。


『カラオケ行くやついる?』


すぐに何人かが反応する。


『行きたい』


『どこ?』


『駅前?』


湊は画面を見つめた。


カラオケ。


高校生っぽい。


中学の頃も、クラスの一部は行っていた。


でも湊はほとんど行ったことがない。


誘われたことがない訳ではない。


ただ、何となく輪に入りきれず、結局断っていた。


今回はどうするべきか。


高校では変わりたい。


でも、いきなり大人数のカラオケは少しハードルが高い。


「朝比奈」


隣から声がした。


雨宮だった。


「ん?」


「LINE見てる?」


「見てる」


「カラオケ」


「うん」


「行くの?」


湊は少し迷った。


正直に言えば、迷っている。


でも、それをそのまま言うのも何となく格好悪い気がした。


「……まだ分かんない」


雨宮は少し頷いた。


「私も」


「雨宮、カラオケ行くタイプに見えない」


「偏見」


「ごめん」


「でも、あんまり行かない」


「だよな」


「朝比奈は?」


「俺も」


「じゃあ同じ」


また同じだ。


最近それが多い。


そして、そのことに湊は少し安心している。


昼休み。


今日は藤堂たちと一緒に購買へ行くことになった。


「今日は勝つ」


藤堂が真剣な顔で言う。


「何に」


「メロンパン」


倉田が笑う。


購買は相変わらず混んでいた。


上級生たちが慣れた動きでパンを取っていく。


新入生はまだ流れについていけない。


「無理だろこれ」


湊が言う。


「いや、行ける」


藤堂は本当に突っ込んでいった。


数分後。


藤堂は勝者の顔で戻ってきた。


「取った」


「おお」


「青春の味する」


「絶対しない」


三橋が冷静に言う。


教室へ戻る途中、女子数人とすれ違った。


その中に雨宮もいた。


「買えた?」


雨宮が聞く。


「藤堂が勝った」


「メロンパン?」


「うん」


雨宮は少し笑った。


「そんなに人気なんだ」


「青春の味らしい」


「意味分かんない」


「俺も」


教室へ戻る。


昼休みの教室は、もう完全に“クラス”になっていた。


誰が誰と食べるのか。


どこで笑いが起きるのか。


自然に決まっている。


湊はその空気の中でパンを食べながら、少しだけ周囲を見た。


高校生活。


たぶん、自分は今その真ん中にいる。


特別目立つ訳ではない。


でも、外でもない。


それが少し嬉しかった。


放課後。


金曜日の教室は、どこか浮ついていた。


土日がある。


それだけで空気が軽い。


山崎が連絡事項を話している間も、みんな少し落ち着かない。


「じゃあ、忘れ物ないように。月曜、小テスト返すから」


「終わったー」


藤堂が言う。


教室に笑いが起きる。


ホームルームが終わると、一気に騒がしくなった。


「カラオケどうする?」


「何時集合?」


「誰来る?」


男子も女子も、少しずつ集まり始めている。


湊は鞄を持ちながら、その空気を見ていた。


行くべきか。


高校生活を変えたいなら、こういう場へ行くべきなのかもしれない。


でも。


「朝比奈」


雨宮が声をかけた。


「ん?」


「帰る?」


「……うん」


その瞬間、湊は少しだけ安心した自分に気づいた。


カラオケへ行かない理由ができたからかもしれない。


そう思って、少しだけ自分が情けなくなる。


「じゃあ駅まで」


雨宮が言う。


湊は頷いた。


二人で教室を出る。


廊下の向こうでは、まだ誰かが笑っている。


部活へ向かう生徒。


遊びへ行く生徒。


それぞれの放課後が始まっている。


湊と雨宮は、並んで階段を降りた。


「行かなかったんだ」


雨宮が言う。


「カラオケ?」


「うん」


「雨宮も」


「大人数ちょっと疲れる」


「分かる」


「朝比奈は?」


湊は少し考えた。


「……まだ、うまく入れない感じする」


正直に言ってしまった。


雨宮は少し黙った。


それから、小さく言った。


「でも、ちゃんと混ざれてると思う」


湊は足を止めそうになった。


「え?」


「藤堂くんたちとも普通に話してるし」


「それは……」


「最初より、ちゃんと教室にいる感じする」


その言葉が、妙に胸に残った。


自分では、まだ不安だった。


ちゃんと馴染めているのか。


浮いていないか。


変に見えていないか。


ずっと少し気にしていた。


でも、雨宮にはそう見えていた。


「……雨宮もだろ」


湊が言うと、雨宮は少しだけ笑った。


「じゃあ、お互いちょっと成功してるね」


夕方の風が吹く。


駅へ向かう道。


周囲には制服姿の高校生がたくさんいる。


その中を、二人で並んで歩く。


それはたぶん、特別なことじゃない。


どこにでもある放課後だ。


でも湊は、その“どこにでもある感じ”が、少し好きになり始めていた。

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