第6話 放課後の音
放課後の学校には、昼間とは違う音がある。
授業中の教室は、基本的に静かだ。
教師の声。
チョークの音。
ノートを取る音。
誰かが小さく咳をする音。
昼休みは騒がしいけれど、それでも教室の中に収まっている騒がしさだった。
けれど放課後は違う。
廊下の奥から響く吹奏楽部の音。
体育館から聞こえるボールの跳ねる音。
グラウンドの方から飛んでくる掛け声。
階段を駆け下りる上級生の足音。
それらが全部混ざって、学校そのものが少しだけ別の場所になったように感じる。
朝比奈湊は、放課後の廊下に立ったまま、しばらく動けずにいた。
部活見学。
高校生活を謳歌するなら、部活は大事だ。
少なくとも湊はそう思っていた。
中学の時も部活には入っていた。
運動部ではなく、そこまで本気でもなく、特に目立つこともない部活だった。楽しくなかった訳ではないが、青春だったかと聞かれると、少し困る。
高校では何か変わりたい。
そのためには、部活に入るべきなのかもしれない。
そう考えていたのに、いざ放課後の学校に残ってみると、どこへ行けばいいか分からなかった。
廊下では、新入生たちが何人かずつ固まって歩いている。
「サッカー部見に行こうぜ」
「軽音ってどこ?」
「マネージャーって何するんだろ」
「吹部、音すごくない?」
みんな、それぞれ目的があるように見える。
湊は手元の部活動紹介冊子を開いた。
運動部。
文化部。
同好会。
一覧には想像以上の数が並んでいる。
バスケ部。
サッカー部。
バドミントン部。
テニス部。
陸上部。
軽音楽部。
吹奏楽部。
美術部。
写真部。
文芸部。
科学部。
どれも入ろうと思えば入れる。
けれど、これだ、と思えるものがない。
「朝比奈」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、三橋がいた。
眼鏡をかけた落ち着いた男子で、同じ班になってから少しずつ話すようになった。
「三橋」
「図書室行くけど、来る?」
「ああ、そういえば言ってたな」
「見学というか、場所確認だけど」
湊は少し迷った。
部活見学とは違うが、何もせずに帰るよりはいい。
それに、雨宮も図書室へ行くと言っていた。
そのことが頭に浮かんでから、湊は少しだけ自分に引っかかった。
別に雨宮がいるから行く訳ではない。
三橋に誘われたからだ。
「じゃあ、少し行こうかな」
「うん」
二人で廊下を歩く。
藤堂はもうバスケ部へ行ったらしい。
倉田は宣言通り帰った。
それぞれの放課後が始まっている。
階段を上がり、図書室へ向かう途中、吹奏楽部の音が近くなった。
まだ曲になりきっていない音。
音階練習。
短く切られるトランペット。
低く響くチューバ。
湊は少し足を止めた。
「すごいな」
「うん。高校って感じする」
三橋が言う。
湊はその言葉に頷いた。
高校って感じ。
最近、そういう感覚が何度もある。
購買の混雑。
クラスLINE。
体育館の部活勧誘。
そして放課後の音。
中学にも似たようなものはあったはずなのに、高校では少し大きく感じる。
たぶん、自分がそれを意識しているからだ。
三階の端に図書室はあった。
扉の前には「図書委員募集中」と書かれた紙が貼られている。
中に入ると、空気が一気に静かになった。
廊下の音が遠くなる。
本棚の匂い。
古い紙と、少し冷えた空調の匂い。
窓から入る夕方の光が、机の上に細く伸びている。
図書室には、数人の生徒がいた。
上級生らしい女子がカウンターに座っている。
奥の席では男子生徒が本を読んでいた。
湊は思わず声を小さくした。
「静かだな」
「図書室だからね」
三橋が普通に答える。
それはそうだ。
でも、その静けさが妙に落ち着いた。
教室のざわめきや部活の音とは違う。
ここだけ時間の進み方が少し遅い。
三橋は本棚を眺め始めた。
湊も適当に歩く。
小説。
評論。
新書。
漫画はほとんどない。
本の背表紙を見ても、知っているタイトルは少なかった。
雨宮はいるだろうか。
そう思って、湊は少しだけ室内を見回した。
すぐに見つかった。
窓際の棚の前。
雨宮栞が本を見ていた。
鞄を肩にかけたまま、背表紙に指を滑らせている。
特段可愛いという訳ではない。
普通の女子。
けれど図書室の静かな空気の中では、なぜか少し馴染んで見えた。
湊は声をかけるか迷った。
図書室で大きな声は出せない。
でも、気づいてしまったのに何も言わないのも変な気がする。
その時、雨宮の方が先にこちらに気づいた。
目が合う。
雨宮は少しだけ眉を上げた。
それから、小さく会釈した。
湊も同じように返す。
それだけで終わるかと思ったが、雨宮は本棚から少し離れて近づいてきた。
「朝比奈も来たんだ」
声は小さい。
図書室用の声だった。
「三橋に誘われて」
「部活見学は?」
「まだ迷ってる」
「分かる」
「雨宮は図書室?」
「うん。落ち着くから」
「言ってたな」
雨宮は手に持っていた本を少し見せた。
知らない小説だった。
表紙は地味で、タイトルも短い。
「借りるの?」
「たぶん」
「もう?」
「早い?」
「いや、高校の図書室で初日に本借りるの、なんかすごいなって」
「何がすごいの」
「馴染むの早い」
雨宮は少しだけ考えた。
「場所に馴染むのは楽」
「人より?」
「うん」
その言葉に、湊は少し黙った。
何となく分かる気がした。
人間関係に入るのは難しい。
どこまで話していいのか。
何を言えばいいのか。
どう思われるのか。
でも場所は、こちらがそこにいるだけでいい。
図書室は、静かにしていれば受け入れてくれる。
「それ、分かるかも」
湊が言うと、雨宮は少しだけ目を細めた。
「朝比奈も?」
「うん。教室はちょっと疲れる時ある」
「まだ一週間なのに」
「だからじゃない?」
雨宮は小さく頷いた。
「それも分かる」
二人の間に少し沈黙が落ちた。
でも図書室の沈黙は、教室の沈黙より苦しくなかった。
むしろ自然だった。
三橋が遠くの本棚からこちらを見ている。
何か言いたそうではない。
ただ、自分の本を探している途中で視界に入っただけらしい。
湊は少し気まずくなり、話題を探した。
「雨宮って、本よく読むんだよな」
「まあ、普通に」
「どんなの?」
「色々」
「一番答えにくいやつだ」
「朝比奈は読まないの?」
「漫画なら」
「それも読むじゃん」
「小説はあんまり」
「じゃあ、読めそうなの探せば?」
「いきなり?」
「図書室来たし」
雨宮はそう言うと、本棚の方へ歩いた。
湊もついていく。
本棚の前に立つ。
雨宮は背表紙を見ながら、何冊か指でなぞった。
「長いのは嫌?」
「最初から長いとたぶん挫折する」
「恋愛ものは?」
「え」
思わず変な声が出た。
図書室なので、慌てて声を抑える。
雨宮は普通の顔でこちらを見た。
「何でそんな反応?」
「いや、急に恋愛ものって」
「読まない?」
「読んだことないかも」
「じゃあ違うのにする?」
湊は少し迷った。
恋愛もの。
自分が読むところを想像すると少し恥ずかしい。
けれど、雨宮が選ぶ本がどんなものか気になった。
「……別に、読めなくはない」
「じゃあこれ」
雨宮が一冊抜き取った。
薄めの文庫本だった。
表紙には制服の男女らしき後ろ姿が描かれている。
タイトルは、少し静かな感じだった。
「これ、読みやすいと思う」
「読んだことある?」
「ある」
「面白かった?」
「普通に」
「その普通、信用していいやつ?」
「いいやつ」
湊は本を受け取った。
他人に本を選ばれるのは、なんだか不思議な感覚だった。
自分では選ばない本。
でも、雨宮が差し出したから手に取っている。
「借りてみる」
「感想聞く」
「読書感想文?」
「三行でいい」
「軽いな」
雨宮は少し笑った。
その後、湊は三橋と一緒に図書室を出た。
雨宮はカウンターで本を借りていた。
湊も、雨宮に選ばれた文庫本を借りた。
貸出カードに名前を書く時、少しだけ緊張した。
図書室を出ると、廊下の音が一気に戻ってきた。
吹奏楽部の音。
誰かの笑い声。
体育館から響く掛け声。
湊は借りた本を鞄に入れながら、三橋に聞いた。
「三橋、図書委員やるの?」
「少し迷ってる」
「部活じゃなくて?」
「部活はまだいいかな。図書委員なら静かそうだし」
「似合う」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
三橋は少し笑った。
「朝比奈は?」
「まだ分からない」
「運動部は?」
「きつそう」
「文化部?」
「それも分からない」
「じゃあ、見学いろいろ行けば」
「だよな」
そんな話をしながら階段を降りる。
二階の廊下を通る時、軽音楽部の勧誘ポスターが目に入った。
初心者歓迎。
一緒に青春しよう。
大きな文字でそう書かれている。
湊は立ち止まった。
青春。
その言葉は、少し眩しい。
簡単に口にできる人と、できない人がいる。
湊は、自分が後者だと思っていた。
「軽音?」
三橋が聞く。
「いや、ちょっと見ただけ」
「興味あるの?」
「楽器できない」
「初心者歓迎って書いてある」
「そういう言葉ほど信用できない」
三橋は少し笑った。
その時、音楽室の方からギターの音が聞こえた。
まだ上手いのか下手なのか分からない。
でも、何かを始めようとしている音だった。
湊はしばらく聞いていた。
自分も何かを始めれば、変われるのだろうか。
部活に入れば、友達が増えるのだろうか。
放課後に居場所ができるのだろうか。
そう思う一方で、無理に“高校生っぽい”ものを選んでも続かない気がした。
何をしたいのか。
自分でもよく分かっていなかった。
階段を下りると、体育館の入り口が見えた。
中からバスケットボールの音が響いてくる。
藤堂がいるはずだ。
少しだけ覗いてみることにした。
体育館の中は熱気があった。
運動部の上級生たちが走っている。
新入生らしい男子が端に並んで見学していた。
藤堂はその中にいた。
すぐに湊たちに気づき、大きく手を振る。
「朝比奈ー!」
声が響く。
湊は少し恥ずかしくなりながら手を上げた。
藤堂は楽しそうだった。
まだ見学なのに、もう体育館の空気に馴染んでいる。
こういう奴は、本当に強い。
自分がいるべき場所を見つけるのが早い。
いや、見つけるというより、自分から場所を作れるのかもしれない。
湊は藤堂を見ながら、少し羨ましく思った。
三橋が隣で言う。
「藤堂、似合うね」
「うん」
「朝比奈は?」
「俺は違うな」
「即答」
「見れば分かる」
体育館の床を走り回る自分を想像してみる。
無理ではない。
でも、そこに自分の居場所がある感じはしなかった。
体育館を出る頃には、外の光が少し柔らかくなっていた。
湊は結局、どの部活にも決められなかった。
図書室へ行き、軽音のポスターを見て、バスケ部を覗いた。
それだけ。
でも何もしなかった訳ではない。
それで今日はいいことにした。
昇降口で三橋と別れた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
三橋は自転車置き場の方へ向かった。
湊は靴を履き替え、校門へ向かう。
放課後の校庭では、サッカー部と陸上部が活動を始めていた。
掛け声が夕方の空に混ざっている。
青春っぽい。
そう思う。
けれど、その中に自分がいる姿はまだ想像できない。
校門を出ると、少し先に雨宮がいた。
一人で歩いている。
湊は少し迷った。
声をかけるか。
昨日も一緒に帰った。
でも毎日声をかけるのは、変ではないか。
そう考えている時点で、自分は意識しすぎているのかもしれない。
けれど、向こうもこちらに気づいた。
雨宮が足を止める。
「朝比奈」
呼ばれた。
それだけで、声をかける理由ができた。
湊は少し早足で追いつく。
「雨宮、もう帰るんだ」
「うん。本借りたし」
「部活は?」
「美術部、少し見ようと思ったけど、今日はいいかなって」
「なんで?」
「なんとなく」
「分かる」
二人で駅へ向かって歩く。
昨日より、並ぶのが少し自然だった。
部活動帰りの上級生や、見学帰りの新入生が周囲にいる。
湊は鞄の中の本を少し意識した。
「本、借りた」
「うん、見た」
「読めるかな」
「読めると思う」
「途中で寝たら?」
「三行感想が一行になる」
「厳しい」
「優しい方」
雨宮は少し笑った。
湊も笑う。
駅までの道の途中、信号で止まった。
夕方の車が目の前を流れていく。
湊は何となく聞いた。
「雨宮って、美術部だったんだよな」
「中学はね」
「高校でもやらないの?」
「迷ってる」
「なんで?」
雨宮は少しだけ考えた。
「好きかどうか、分からなくなったから」
湊はすぐに返せなかった。
思っていたより、少し深い答えだった。
「絵が?」
「うん。中学の時は何となく続けてたけど、高校でも続けたいかって言われると、分からない」
「そっか」
「朝比奈は? 何かやりたいことある?」
湊は信号の向こうを見た。
青に変わるのを待つ。
「それが分からないから困ってる」
「じゃあ同じだ」
「同じか」
「うん」
信号が青になる。
二人で歩き出す。
湊は少しだけ気が楽になった。
自分だけが迷っている訳ではない。
雨宮も迷っている。
何をしたいか分からないまま、高校生活の中で少しずつ探している。
それが分かっただけで、少し安心した。
駅に着くと、ホームはいつもより混んでいた。
部活見学帰りの生徒が多いのだろう。
二人は少し端の方に立った。
「藤堂くん、バスケ部?」
雨宮が聞いた。
「たぶん。めちゃくちゃ似合ってた」
「分かる」
「雨宮、見たの?」
「体育館の前通った」
「声大きかっただろ」
「うん」
雨宮は少し笑った。
電車が来る。
二人は乗り込む。
今日は少し混んでいて、並んで立つのがやっとだった。
雨宮との距離がいつもより近い。
肩が触れそうで触れない。
湊はつり革を掴みながら、妙に緊張した。
雨宮は普通に窓の外を見ている。
たぶん、何も気にしていない。
そう思おうとした。
「朝比奈」
「ん?」
「部活、無理に入らなくてもいいんじゃない?」
突然だった。
湊は少し驚いた。
「なんで?」
「なんとなく、入らなきゃって思ってそうだったから」
湊は黙った。
本当に、雨宮はたまに真っ直ぐ当ててくる。
「……思ってるかも」
「高校生活っぽいから?」
「うん。部活入って、友達作って、放課後残って、みたいな」
「分かる」
「でも、やりたいことはまだない」
「じゃあ、まだ決めなくていいと思う」
雨宮は淡々と言った。
でも、その言葉は冷たくなかった。
湊は少しだけ息を吐いた。
「雨宮も?」
「私も」
「そっか」
「普通に迷えばいいんじゃない?」
湊は笑った。
「また普通」
「普通、大事だし」
「それはそう」
電車が揺れる。
雨宮の肩が少しだけ近づく。
触れなかった。
でも、湊は少しだけ意識してしまった。
雨宮の降りる駅が近づく。
「本、読んだら感想」
雨宮が言った。
「三行?」
「三行」
「分かった」
「忘れたら?」
「また成長したねって言われる?」
「逆。退化したね」
「厳しい」
雨宮は少し笑って、電車を降りた。
ホームに立ち、軽く手を上げる。
湊も小さく返す。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
湊は鞄の中の文庫本を思い出した。
雨宮が選んだ本。
恋愛もの。
自分ではたぶん選ばなかった本。
家に帰ったら読んでみよう。
そう思った。
放課後の音は、まだ耳に残っている。
吹奏楽部の音。
体育館のボールの音。
藤堂の声。
図書室の静けさ。
雨宮の声。
高校生活は、いろんな音でできている。
その中で、自分がどの音の近くにいたいのか、湊にはまだ分からない。
でも。
今日も、明日が少しだけ嫌ではなかった。
それだけは、はっきりしていた。




