第10話 名前
火曜日の朝、朝比奈湊は少しだけ寝坊した。
と言っても、遅刻するほどではない。
いつもより十分遅く起きただけだ。
けれど朝の十分は大きい。
顔を洗う時間も、朝食を食べる時間も、鞄の中身を確認する時間も、全部が少しずつ削られる。
湊は制服に着替えながら、机の上の文庫本をちらりと見た。
昨日の夜、結局続きを読んだ。
雨宮に勧められた二冊目の本。
駅のホームが表紙になっていた青春小説だ。
まだ半分くらいまでしか読めていない。
でも、前の本より少しだけ重かった。
主人公が、友達でも恋人でもない相手と距離を測りながら話す場面があった。
近いようで遠い。
遠いようで近い。
その関係に名前をつけられない、というような文章。
湊はそこを読んで、しばらくページをめくる手が止まった。
関係に名前をつける。
友達。
クラスメイト。
隣の席。
同じ電車に乗る相手。
本を勧めてくれた相手。
雨宮栞は、湊にとって何なのだろう。
そう考えかけて、慌てて本を閉じた。
考えすぎだ。
まだ高校に入って十日も経っていない。
ただ少し話すようになっただけ。
それ以上の意味なんてない。
そう思ったのに、朝になっても少し残っていた。
母に「急がなくていいの?」と言われ、湊は現実に戻った。
「やばい」
「パン持ってく?」
「持ってく」
湊はトーストを半分だけ口に入れ、残りを紙ナプキンに包んでもらった。
家を出る頃には、いつもよりかなり慌ただしかった。
駅まで早歩きする。
鞄が肩に当たって少し痛い。
朝の空気は昨日より暖かく、走るほどではないのに少し汗ばむ。
ホームに着くと、いつもの電車が来る直前だった。
湊は息を整えながら列に並んだ。
電車が来る。
ドアが開く。
乗り込む。
いつもの場所は少し埋まっていた。
湊はドアから少し離れたところに立ち、ようやく息を吐いた。
危なかった。
遅刻ではない。
でも、朝から少し疲れた。
次の駅で、雨宮が乗ってきた。
いつも通りの時間。
いつも通りの表情。
湊を見つけると、少しだけ目を細めた。
「おはよう」
「おはよう」
「眠そうというより、急いだ顔」
「寝坊した」
「珍しい?」
「高校入ってからは」
「まだ十日くらいだけど」
「まあ」
雨宮は湊の手元を見た。
紙ナプキンに包まれたトースト。
「それ、朝ごはん?」
「途中で食べようと思って」
「電車で?」
「いや、さすがに学校着いてから」
「成長したね」
「何基準?」
「マナー」
湊は笑った。
雨宮も少しだけ笑う。
朝の電車で、こうやって話すのにも少し慣れてきた。
最初は目が合うだけで少し構えていたのに、今は普通に挨拶できる。
普通。
その言葉が、最近は少しだけ違って感じる。
学校に着くと、湊は教室へ向かう前に廊下の端でトーストを食べた。
雨宮は少し離れたところで待っている訳でもなく、でも先に行く訳でもなく、窓の外を見ていた。
「待たなくていいのに」
湊が言うと、雨宮は振り返った。
「待ってないよ」
「そう?」
「廊下見てただけ」
「廊下?」
「うん。朝の廊下」
湊はパンを飲み込んだ。
「何かある?」
「みんな急いでる」
雨宮の視線の先を見る。
たしかに、朝の廊下にはいろんな人がいた。
友達と笑いながら歩く女子。
ネクタイを直しながら走る男子。
先生に挨拶する上級生。
眠そうに階段を上る生徒。
その全部が朝の学校だった。
「雨宮って、そういうのよく見るよな」
「そう?」
「うん」
「暇だから」
「暇って」
湊は笑った。
二人で教室へ入る。
教室にはすでにいつものざわめきがあった。
藤堂が前の席で倉田と話している。
三橋はノートを開いていた。
女子の方では、昨日のクラス写真の話をまだしている。
湊が席に座ると、藤堂が振り返った。
「朝比奈、今日眠そうだな」
「寝坊した」
「珍しいじゃん」
「なんでみんな珍しいって言うんだよ」
倉田が笑う。
「朝比奈、ちゃんとしてそうだから」
「そんなことない」
「雨宮さんに忘れ物いじられてたじゃん」
藤堂が言った。
湊は少しだけ隣を見る。
雨宮は鞄から教科書を出していたが、聞こえていたらしく、小さくこちらを見た。
「いじってない」
「いじってるだろ」
湊が言うと、雨宮は真顔で返した。
「観察」
「なお悪い」
藤堂が笑った。
「二人、ほんと隣って感じするよな」
その言葉に、湊は少しだけ固まった。
隣って感じ。
どういう意味だろう。
ただ席が隣だからか。
それとも、よく話しているからか。
雨宮を見ると、彼女は特に気にしていないようだった。
「席が隣だからね」
雨宮は普通に言った。
「そりゃそうか」
藤堂もそれで納得して前を向いた。
湊は少しだけ胸の奥が落ち着かないまま、鞄から教科書を出した。
一時間目は英語だった。
今日は簡単なペアワークのあと、小さな発表があった。
隣同士で相手に質問し、その答えを英語で一つ紹介するというもの。
湊は少し嫌な予感がした。
相手はもちろん雨宮。
質問内容は、好きな食べ物、趣味、休日にすること、好きな季節などから選ぶ。
「じゃあ隣同士で聞いてください」
先生が言うと、教室がざわついた。
雨宮が教科書を見ながら言った。
「何聞く?」
「無難に趣味?」
「読書って前に言った」
「じゃあ好きな季節」
「普通」
「普通でいいだろ」
「いいけど」
雨宮が英語で聞く。
「What season do you like?」
湊は少し考えた。
好きな季節。
中学の頃は、特に考えたことがなかった。
夏は暑い。
冬は寒い。
春は花粉。
秋は短い。
どれも普通。
でも今は、少しだけ春が浮かんだ。
高校が始まった季節。
雨宮と出会った季節。
そう考えて、少し恥ずかしくなる。
「I like spring.」
「Why?」
「Because……」
湊は詰まった。
なぜ春が好きなのか。
英語にすると急に難しい。
「Because it is warm.」
無難すぎる答えになった。
雨宮は少し笑った。
「普通」
「英語で深いこと言えない」
「日本語でも?」
「たぶん」
次は湊が聞く番だった。
「What season do you like?」
雨宮は少し考えた。
「I like rainy season.」
「梅雨?」
思わず日本語で聞いてしまった。
雨宮は頷く。
「Why?」
雨宮は教科書の例文を少し見てから、ゆっくり答えた。
「Because it is quiet.」
静かだから。
湊はその答えが少し雨宮らしいと思った。
発表では、数人が当てられた。
湊たちも当てられてしまった。
先生が言う。
「朝比奈くん、雨宮さんの答えを紹介してください」
湊は立ち上がる。
教室の視線が集まる。
「She likes rainy season because it is quiet.」
短く言う。
先生が「Good」と頷いた。
次に雨宮が立ち上がる。
「He likes spring because it is warm.」
教室の何人かが少し笑った。
理由があまりにも普通だったからかもしれない。
湊は少し恥ずかしくなる。
雨宮は座る時、小さく言った。
「暖かいから」
「仕方ないだろ」
「朝比奈らしい」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
たぶんかよ、と思いながらも、湊は少し笑った。
二時間目は現代文だった。
授業の終わりに、先生が短い課題を出した。
「今日読んだ文章の中で、印象に残った言葉を一つ選んで、その理由を書いてください」
湊は少し迷った。
文章の中に、“名前を知らないものほど、心に残ることがある”という一文があった。
それが、なぜか引っかかった。
名前を知らないもの。
関係に名前をつける。
昨日読んだ本のことを思い出す。
湊はノートにその一文を書き写した。
理由。
理由はうまく書けない。
友達とか、恋人とか、親友とか、そういう名前がついていなくても、残る関係があるような気がしたから。
そう書きかけて、やめた。
恥ずかしすぎる。
結局、少し変えた。
“はっきり説明できない感情でも、自分の中に残ることがあると思ったから。”
これならまだましだ。
隣の雨宮は何を書いているのだろう。
湊は少し気になったが、覗くのは失礼なのでやめた。
休み時間。
雨宮がノートを閉じながら言った。
「朝比奈、何選んだ?」
「名前を知らないもの、みたいなやつ」
雨宮が少しだけ目を上げた。
「同じ」
「え」
「同じところ選んだ」
湊は少し驚いた。
「理由は?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
でも雨宮は普通に答えた。
「名前つけると、逆に狭くなることもあるから」
湊は黙った。
雨宮の言葉は、時々授業より難しい。
「どういうこと?」
「例えば、友達って言ったら、友達っぽくしなきゃいけない気がする」
「……ああ」
「普通に話せる相手、くらいの方が楽なこともある」
湊はその言葉を、妙にはっきり受け取ってしまった。
普通に話せる相手。
それは、自分と雨宮のことだろうか。
そう考えかけて、やめた。
考えすぎると、また変になる。
「雨宮って、現代文得意そう」
「普通」
「それもう聞き飽きた」
「でも普通」
「じゃあ俺は?」
「考えすぎ」
「教科じゃない」
雨宮は少し笑った。
昼休み。
藤堂たちと机を合わせて弁当を食べる。
今日は倉田がクラスLINEのアイコンの話を始めた。
「初期アイコンのやつ誰?」
「雨宮さんじゃなかった?」
藤堂が言う。
湊は少しだけ隣の女子グループを見る。
雨宮は女子たちと弁当を食べていた。
確かに、クラスLINEの雨宮のアイコンは初期のままだった気がする。
「変えないのかな」
倉田が言う。
「別にいいだろ」
三橋が返す。
「いや、なんか性格出るじゃん」
「アイコンで性格診断するな」
藤堂が笑う。
「朝比奈は普通だよな。風景?」
「駅前で撮ったやつ」
「無難」
「悪いか」
「悪くない。朝比奈っぽい」
また“ぽい”と言われた。
自分っぽいとは何なのか。
最近それを考えることが増えた。
湊はスマホを開き、自分のアイコンを見た。
駅前の夕方の写真。
中学の時から使っている。
特に意味はない。
何となく撮った写真を設定しただけ。
雨宮の初期アイコン。
自分の無難な風景。
どちらも、何となく本人らしいと言われればそうなのかもしれない。
放課後。
今日は係決めの残りがあった。
美化係、掲示係、文化祭準備委員。
文化祭。
まだ先のことだと思っていた言葉が、黒板に書かれた瞬間、教室が少しざわついた。
山崎が言う。
「文化祭は秋だけど、準備委員は早めに決めます。まあ本格的に忙しくなるのは夏休み前くらいからかな」
文化祭。
高校生活っぽいイベントの代表。
湊は少しだけ胸が動いた。
中学にも文化祭はあった。
でも、高校の文化祭はもっと自由で、もっと青春っぽいイメージがある。
クラスで何かを作って、放課後に残って、準備して、当日を迎える。
そういうものに、湊は少し憧れていた。
「やる人いる?」
山崎が聞く。
すぐには手が挙がらない。
こういう時、最初に手を挙げるのは難しい。
でも、誰かがやらなければならない。
藤堂が湊の方を見た。
「朝比奈やれば?」
「なんで」
「真面目そう」
「それ理由になる?」
倉田も乗る。
「向いてそう」
「適当だろ」
三橋が言う。
「でも、ちゃんとやりそうではある」
湊は少し困った。
文化祭準備委員。
大変そうだ。
でも、少し興味もある。
高校生活をちゃんと味わうなら、こういうものに関わるのはいいのかもしれない。
けれど自分から手を挙げる勇気はない。
そんなことを考えていると、女子の方で手が挙がった。
雨宮だった。
湊は驚いて隣を見る。
雨宮は普通に前を見ていた。
山崎が言う。
「女子一人、雨宮さんね。男子も一人必要です」
教室の空気が少し動く。
藤堂が湊の肩を軽く叩いた。
「朝比奈、行け」
「は?」
「隣だし」
「理由になってない」
「文化祭青春だぞ」
倉田が笑う。
「行っとけ行っとけ」
湊はかなり迷った。
雨宮が手を挙げた。
男子も必要。
ここで手を挙げたら、雨宮と一緒に文化祭準備委員になる。
それを意識した瞬間、逆に手が重くなる。
変に思われないか。
藤堂にからかわれないか。
雨宮にどう思われるか。
考えすぎだ。
でも考えてしまう。
その時、雨宮が小さくこちらを見た。
目が合う。
何かを言った訳ではない。
手招きした訳でもない。
ただ、少しだけ見た。
湊はなぜか、それだけで腹を決めた。
ゆっくり手を挙げる。
「あ、じゃあ俺やります」
教室の何人かが「おお」と言った。
藤堂が小さく拍手する。
「青春」
「うるさい」
湊は顔が熱くなるのを感じながら、手を下ろした。
山崎が黒板に書く。
文化祭準備委員。
朝比奈湊。
雨宮栞。
並んだ名前。
湊はそれを見て、少しだけ息を飲んだ。
名前が並ぶだけで、なぜか落ち着かない。
雨宮は特に表情を変えなかった。
でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいるように見えた。
ホームルームが終わると、藤堂がすぐに言ってきた。
「朝比奈、文化祭委員じゃん」
「お前が言ったんだろ」
「いやー、青春始まったな」
「始まってない」
倉田も笑う。
「雨宮さんと一緒だしな」
湊は少し身構えた。
やっぱり来た。
でも倉田の言い方は軽く、嫌な感じではなかった。
藤堂もそれ以上深く言わなかった。
「まあ頑張れ。面倒そうだけど」
「急に現実言うな」
三橋が言う。
「でも文化祭委員は大事だと思う。クラスの中心に関わるし」
「中心……」
湊は少し不安になった。
自分にできるのだろうか。
クラスの中心で何かを進めるようなこと。
中学の頃なら絶対に避けていた。
でも今、名前が黒板に書かれてしまった。
放課後、山崎に呼ばれて、文化祭準備委員だけが少し残ることになった。
雨宮も席を立つ。
湊も鞄を持って教卓の前へ向かった。
他のクラスの委員も、後日集められるらしい。
今日は簡単な説明だけだった。
「まだ先だけど、一組の文化祭関係は二人に連絡が行きます。クラスの希望をまとめたり、プリント配ったり、会議に出たり。まあ最初から全部やれとは言わないから」
山崎はそう言って、薄いプリントを二枚渡した。
「とりあえずこれ、目を通しておいて」
湊と雨宮は一枚ずつ受け取った。
文化祭準備委員の役割。
開催時期。
今後の予定。
湊は文字を追いながら、思ったよりちゃんとしているなと感じた。
「質問ある?」
山崎が聞く。
湊は特に思いつかなかった。
雨宮も首を横に振る。
「じゃあ今日は帰っていいです。よろしく」
教室を出る頃には、ほとんどの生徒が帰っていた。
廊下の音は少し遠い。
湊と雨宮は並んで歩いた。
しばらく無言だった。
先に口を開いたのは雨宮だった。
「朝比奈、手挙げると思わなかった」
「俺も」
「自分でも?」
「うん」
「なんで挙げたの?」
湊は少し困った。
雨宮が手を挙げたから。
そう言いそうになって、やめる。
それはまだ言葉にするには近すぎる。
「高校生活っぽいかなと思って」
雨宮は少しだけ笑った。
「青春?」
「それ、藤堂のせいで嫌いになりそう」
「でも、分かる」
「雨宮はなんで?」
「同じ」
「高校生活っぽいから?」
「うん。あと、何もしないで見るより、少し関わった方が覚えてそうだから」
湊はその言葉に頷いた。
それは分かる。
ただ過ぎていくより、少しでも関わった方が残る。
普通の高校生活を、ただ眺めるだけで終わりたくない。
「じゃあ同じか」
湊が言うと、雨宮は頷いた。
「同じ」
駅へ向かう道。
春の夕方。
今日は少し風が弱かった。
「文化祭って、何やるんだろうな」
湊が言う。
「定番なら喫茶店とか、お化け屋敷とか」
「高校っぽい」
「朝比奈、お化け屋敷苦手そう」
「決めつけるな」
「違う?」
「……得意ではない」
雨宮は少し笑った。
「やっぱり」
「雨宮は平気なの?」
「普通」
「絶対平気なやつだ」
「たぶん」
二人で笑う。
駅に着き、ホームに立つ。
電車を待つ間、湊はプリントをもう一度見た。
文化祭準備委員。
朝比奈湊。
雨宮栞。
名前はプリントには書かれていない。
でも、黒板に並んだ二人の名前が頭に残っていた。
関係に名前をつけると、狭くなることもある。
雨宮はそう言っていた。
でも今日、湊と雨宮には一つだけ新しい名前がついた。
文化祭準備委員。
友達でも、恋人でも、親友でもない。
ただの役割。
それでも、二人で何かをする理由にはなる。
湊は少しだけ、それが嬉しかった。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座席が空いていたが、また二人とも立った。
「また譲り合い失敗?」
雨宮が言う。
「今日は最初から立つつもり」
「成長したね」
「何でも成長にするな」
雨宮は少し笑う。
雨宮の降りる駅が近づいた。
「じゃあ、文化祭委員」
雨宮が言った。
「急に役職で呼ぶな」
「朝比奈委員」
「やめろ」
「じゃあまた明日、朝比奈」
湊は少しだけ返事が遅れた。
名字を呼ばれるのはいつものことだ。
でも今、なぜか少しだけ意識した。
「また明日、雨宮」
普通の挨拶。
普通の呼び方。
でも、それが少しずつ馴染んでいく。
雨宮は電車を降りる。
ホームで小さく手を上げる。
湊も返す。
扉が閉まる。
電車が動く。
湊は窓の外を見ながら、今日のことを思い返した。
春が好きな理由を、暖かいからと答えたこと。
雨宮が梅雨を静かだから好きと言ったこと。
同じ一文を選んだこと。
文化祭準備委員になったこと。
名前が黒板に並んだこと。
普通の一日だった。
でも、普通の中に、少しだけ特別なものが混ざり始めている。
その特別にまだ名前はない。
名前をつけるには、たぶん早すぎる。
だから今は、隣の席。
同じ委員。
普通に話せる相手。
それくらいでいい。
湊はそう思いながら、鞄の中のプリントに手を触れた。
明日も学校がある。
そのことが、少しだけ楽しみになっていた。




