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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第11話 委員会

文化祭準備委員になった翌日、朝比奈湊は少しだけ教室へ入りづらかった。


理由は分かっている。


昨日、黒板に名前が並んだからだ。


朝比奈湊。


雨宮栞。


文化祭準備委員。


たったそれだけのことだ。


クラスの係の一つでしかない。


誰もそんなに気にしていないはずだし、湊自身も大げさに考えることではないと分かっている。


それでも、教室のドアを開ける前に少しだけ呼吸を整えてしまった。


中学の頃からそうだった。


何か小さな変化があると、次の日の教室が少し怖くなる。


昨日の発言を誰かに覚えられていないか。


変に思われていないか。


からかわれないか。


そんなことを、誰よりも自分が気にしている。


湊はドアの前で一度だけ鞄を持ち直し、教室へ入った。


朝の教室はいつも通りだった。


藤堂はすでに来ていて、倉田と何か話している。


三橋は机でノートを見ている。


女子の方では、昨日のクラスLINEで流れていた動画の話をしているようだった。


誰も湊を見ていない。


当然だ。


自分が気にしているほど、世界は自分を見ていない。


湊は少し安心して席へ向かった。


隣の席は空いていた。


雨宮はまだ来ていない。


湊は鞄を机にかけ、教科書を出す。


今日は数学、英語、体育、午後に委員会の説明会がある。


正確には、文化祭準備委員だけが放課後に集まるらしい。


昨日、山崎から言われた。


「明日の放課後、各クラスの文化祭準備委員は視聴覚室に集合な」


つまり、雨宮と一緒に行くことになる。


それを考えると、少し落ち着かなかった。


クラスで隣同士で話すのとは違う。


駅まで一緒に帰るのとも違う。


同じ役割として、同じ場所へ行く。


ただそれだけなのに、妙に意識してしまう。


「朝比奈」


前の席から藤堂が振り返った。


「ん?」


「今日、委員会あるんだろ?」


「あるらしい」


「文化祭委員って何すんの?」


「まだ分からない。今日説明」


「いいなー、青春じゃん」


「またそれか」


藤堂は楽しそうに笑った。


「いや、文化祭って絶対青春だろ。放課後残って準備して、買い出し行って、なんか揉めて、最終的に団結するやつ」


「漫画の読みすぎ」


倉田が横から言う。


「でも大体そんな感じじゃね?」


「現実は面倒な連絡係だろ」


三橋がノートから顔を上げずに言った。


藤堂が「夢壊すなよ」と笑う。


湊はそのやり取りを聞きながら、少しだけ気が楽になった。


からかわれているようで、深くは踏み込まれない。


藤堂たちのそういう距離感はありがたかった。


教室のドアが開いた。


雨宮栞が入ってくる。


湊は自然に視線を向けてしまった。


雨宮はいつも通りだった。


少し眠そうで、でも足取りは落ち着いている。


席へ来ると、湊を見て小さく言った。


「おはよう」


「おはよう」


その一言で、少しだけ緊張がほどけた。


雨宮は鞄を置き、教科書を出す。


「今日、委員会だよね」


「うん」


「場所、視聴覚室?」


「たぶん」


「分かった」


それだけ。


あまりにも普通だった。


湊は少し拍子抜けする。


雨宮にとっては、ただの委員会なのかもしれない。


いや、湊にとってもそうだ。


ただの委員会。


それ以上ではない。


そう思おうとした。


一時間目の数学は、前回より少し難しかった。


湊は何とかついていけたが、雨宮は途中で少し眉を寄せていた。


授業中、彼女がノートの端に小さく疑問符を書いているのが見えた。


休み時間になると、雨宮がすぐに湊の方を向いた。


「朝比奈」


「ん?」


「ここ、分かった?」


雨宮がノートを見せる。


文字が綺麗だ。


途中式も丁寧に書かれている。


けれど、確かに一ヶ所だけ飛んでいる。


湊は自分のノートを出した。


「ここで、たぶんこう変形してる」


「そこが分からない」


「えっと」


湊は少し考えながら説明した。


自分も完全に得意な訳ではない。


でも、分かる範囲で言葉にする。


「この式をこっちに移して、両方に同じ数をかける」


「うん」


「で、ここが消える」


「……ああ」


雨宮は小さく頷いた。


「分かったかも」


「ほんと?」


「たぶん」


「そのたぶん怖いな」


「でも前より分かった」


「ならよかった」


雨宮はノートに書き直した。


その横で、藤堂がこちらを見ている。


「朝比奈先生」


「やめろ」


「俺にも教えて」


「授業聞け」


「聞いた結果分からない」


倉田も後ろから言う。


「俺も」


三橋がため息をつく。


「じゃあ俺が説明する」


「お、三橋先生」


結局、休み時間は小さな数学講座みたいになった。


湊は雨宮に説明し、三橋は藤堂と倉田に説明する。


教室の片隅で、そんなことをしている自分が少し不思議だった。


中学の頃、休み時間に勉強を教える側になるなんて想像しなかった。


湊は特別頭がいい訳ではない。


成績も中の上くらい。


でも、高校に入ってから、自分の“普通にできること”が誰かの役に立つ場面が少し増えた。


それは小さなことだけど、悪くなかった。


二時間目の英語では、単語テストがあった。


雨宮は数学より英語の方が得意らしく、すらすら書いていた。


湊は数問迷った。


テスト後、雨宮が小さく聞いた。


「どうだった?」


「普通より少し下かも」


「朝比奈も?」


「英語は微妙」


「じゃあ教える」


湊は少し驚いた。


「雨宮が?」


「数学教えてもらったから」


「交換?」


「うん」


その言葉が何となく嬉しかった。


一方的に助けるでもなく、助けられるでもなく、交換。


そういう関係は気が楽だ。


昼休み。


湊は藤堂たちと弁当を食べながら、放課後の委員会のことを少し考えていた。


藤堂は相変わらずバスケ部の話をしている。


「昨日さ、見学なのに軽く練習参加したんだけど、先輩やばかった」


「もう入るの確定じゃん」


倉田が言う。


「たぶん入る」


「青春だな」


湊が言うと、藤堂が笑った。


「お、朝比奈が青春使った」


「感染した」


「いい傾向」


三橋は弁当を食べながら言う。


「部活入るなら早めに見た方がいいよ。仮入部期間短いし」


「だよな」


「文化祭委員もあるなら忙しくなるかもね」


文化祭委員。


湊は弁当の卵焼きを見ながら頷いた。


「そんなに忙しくなるのかな」


「文化祭前はなるんじゃない?」


倉田が言う。


「クラスの意見まとめるとか、一番面倒そう」


「やっぱり?」


「だってクラスで何やるか決めるんだろ? 絶対意見割れる」


藤堂がパンをかじりながら言った。


「喫茶店でよくね?」


「食品系は申請面倒そう」


三橋が言う。


「お化け屋敷は?」


「準備大変そう」


「じゃあ何が楽?」


「展示」


「つまんなそう」


「ほら、もう割れた」


倉田の一言に、湊は思わず笑った。


確かに、文化祭は簡単ではなさそうだ。


青春っぽい響きの裏には、面倒な話し合いがある。


でも、それも含めて高校生活なのかもしれない。


昼休みの終わり頃、湊は飲み物を買いに廊下へ出た。


自販機の前に行くと、雨宮がいた。


最近、この場所で会うことが増えた。


雨宮はお茶を買ったところだった。


「また会った」


湊が言うと、雨宮は振り返った。


「自販機で会いがち」


「行動パターン似てるのかな」


「朝比奈もお茶?」


「今日はミルクティー」


「甘い」


「コーヒーはまだ早かった」


雨宮は少し笑った。


湊はミルクティーを買う。


紙パックを手に取ると、雨宮が言った。


「委員会、少し緊張する」


湊は意外だった。


「雨宮も?」


「うん」


「平気そうに見えた」


「見えるだけ」


土曜日にも聞いた言葉だった。


平気そうに見えるだけ。


湊は少しだけ、雨宮のことを分かってきた気がした。


雨宮は落ち着いて見える。


周囲に流されないように見える。


でも、たぶん何も感じていない訳ではない。


ただ、外に出す量が少ないだけだ。


「俺も緊張してる」


湊が言うと、雨宮は少しだけ安心したように頷いた。


「同じだ」


「また同じ」


「多いね」


「うん」


二人で教室へ戻る。


その途中、湊は少しだけ思った。


同じだ、と言える相手がいることは、思ったより心強い。


放課後。


ホームルームが終わると、教室の空気が一気にほどけた。


部活へ行く人。


帰る人。


友達と話し込む人。


それぞれが動き出す。


湊は鞄を持ち、雨宮の方を見た。


雨宮もプリントを鞄に入れていた。


「行く?」


湊が言うと、雨宮は頷いた。


「うん」


二人で教室を出る。


藤堂が後ろから声をかけた。


「委員会頑張れよー」


「うるさい」


湊が返すと、藤堂は笑った。


廊下を歩く。


視聴覚室は四階にあった。


普段あまり行かない場所だ。


階段を上がるたびに、教室のざわめきが少しずつ遠くなる。


雨宮が隣で言った。


「文化祭委員って、何人くらいいるんだろ」


「各クラス二人なら、結構いるんじゃない?」


「知らない人多そう」


「それが一番緊張する」


「分かる」


四階の廊下は、下の階より静かだった。


視聴覚室の前には、すでに何人かの生徒が集まっていた。


一年生だけではなく、二年生や三年生もいるようだった。


湊は一瞬、足を止めそうになった。


知らない人ばかり。


こういう場は苦手だ。


教室ならまだ、自分の席がある。


でもここでは、どこに立てばいいのか分からない。


雨宮も少しだけ足を緩めた。


湊はそれに気づいた。


自分だけではない。


そう思うと、少しだけ前に進めた。


「入るか」


湊が言うと、雨宮は小さく頷いた。


視聴覚室の中には、長机がいくつも並んでいた。


黒板の前には文化祭実行委員らしい上級生が立っている。


入ったクラスから順番に、指定された席へ座るようだった。


一年一組の札を見つけ、湊と雨宮はそこへ座った。


隣同士。


教室でも隣。


委員会でも隣。


湊は少しだけ変な感じがした。


雨宮は机の上に筆記用具を出す。


湊も慌てて筆箱を出した。


「シャーペンある?」


雨宮が小声で聞く。


「ある」


「成長」


「まだ言う」


「確認」


湊は少し笑った。


そのおかげで、緊張が少し薄れた。


委員会が始まった。


前に立った三年生の女子が、はっきりした声で話し始める。


「今年度の文化祭実行委員長の佐倉です。今日は各クラスの準備委員に、今後の流れを説明します」


声が通る。


姿勢も綺麗で、慣れている感じがした。


湊は思わず感心した。


人前であんな風に話せる人間はすごい。


自分なら声が震える。


説明は思ったより本格的だった。


文化祭の開催時期。


クラス企画の決定期限。


食品を扱う場合の条件。


装飾のルール。


予算。


準備期間。


当日の役割。


資料には細かい文字が並んでいる。


湊はそれを見ながら、少しだけ不安になった。


思っていたより仕事が多い。


ただ青春っぽいから、で手を挙げるには重かったかもしれない。


隣の雨宮も、真剣に資料を見ていた。


「大変そう」


湊が小声で言うと、雨宮は小さく頷いた。


「うん」


「手挙げたの早まったかな」


「少し思ってる」


「雨宮も?」


「うん」


二人で小さく笑った。


その後、各クラスで来週までに仮の企画案を三つ出すように言われた。


来週のホームルームでクラスから意見を集める。


そのまとめを準備委員が提出する。


つまり、湊と雨宮がクラスに話を振ることになる。


湊は資料を見たまま固まった。


「これ、前で喋るやつ?」


「たぶん」


雨宮が小声で言う。


「無理かも」


「私も」


「どうする?」


「二人でやれば半分」


その言葉に、湊は少しだけ救われた。


二人で。


そうか。


一人ではない。


委員会が終わったのは、放課後から三十分ほど経った頃だった。


視聴覚室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。


下の階から部活の音が聞こえる。


湊は資料を鞄に入れながら言った。


「思ったよりちゃんとしてたな」


「文化祭って、ちゃんと準備するんだね」


「漫画みたいにノリだけじゃないんだ」


「藤堂くんに言ったら残念がりそう」


「言いそう」


二人で階段を降りる。


いつもより少し遅い時間の学校は、雰囲気が違った。


教室の多くは空いていて、廊下は少し静か。


その代わり、外から部活の音が強く聞こえる。


湊はその音を聞きながら、ふと思った。


放課後に学校へ残る。


それだけで、少し高校生らしい。


「朝比奈」


雨宮が言った。


「ん?」


「来週、クラスで企画聞くやつ」


「ああ」


「一緒に考えよう」


湊はすぐに頷いた。


「うん」


「どっちが何言うか決めないと、たぶん固まる」


「俺が?」


「二人とも」


「否定できない」


雨宮は少し笑った。


昇降口で靴を履き替え、外へ出る。


夕方の空は薄いオレンジ色だった。


いつもより少し遅い帰り道。


駅へ向かう生徒の数も少ない。


「文化祭、何がいいと思う?」


湊が聞く。


「見る側なら喫茶店」


「やる側なら?」


「楽なの」


「現実的」


「大事」


「お化け屋敷は?」


「朝比奈が怖がる」


「まだ言うか」


「うん」


湊は笑った。


駅までの道を歩きながら、二人は文化祭の話を続けた。


喫茶店。


縁日。


展示。


迷路。


写真スポット。


劇。


どれも少し楽しそうで、少し面倒そうだった。


でも、その面倒さまで含めて、湊は少し楽しみになっていた。


来週、クラスで話し合う。


放課後に準備する。


雨宮と一緒に資料を確認する。


そういう予定が、少しずつ未来に置かれていく。


湊が中学の頃には、あまりなかった感覚だった。


駅に着くと、電車はすぐには来なかった。


ホームで二人並んで待つ。


雨宮が資料のプリントをもう一度見ている。


「真面目だな」


湊が言うと、雨宮は顔を上げた。


「忘れそうだから」


「雨宮が?」


「私も忘れるよ」


「意外」


「朝比奈よりは忘れない」


「比較対象が低い」


「うん」


「認めるな」


雨宮は少しだけ笑った。


電車が来る。


二人で乗る。


車内はいつもより空いていた。


今日は座れた。


少し距離を空けて、隣同士に座る。


立っている時より、座っている方が少し落ち着かない。


湊は膝の上に鞄を置いた。


雨宮は窓の外を見ていた。


「今日さ」


湊が言う。


「うん」


「委員会、雨宮も緊張してるって分かって、ちょっと楽だった」


雨宮は少しこちらを見た。


「私も」


「俺が?」


「うん。朝比奈も緊張してるって分かったから」


湊は少し笑った。


「二人とも緊張してるのに?」


「一人で平気なふりするよりいい」


その言葉は、静かに残った。


平気なふり。


湊も、たぶん雨宮も、それをよくしている。


教室で。


クラスで。


初めての場所で。


でも、二人でいる時は少しだけそれをやめられるのかもしれない。


雨宮の降りる駅が近づく。


「じゃあ、また明日」


雨宮が立ち上がる。


「うん。また明日」


「朝比奈」


「ん?」


「文化祭委員、頑張ろうね」


湊は少しだけ驚いた。


雨宮がそういう言い方をするのは、珍しい気がした。


だから、ちゃんと頷いた。


「うん。頑張ろう」


雨宮は小さく頷いて、電車を降りた。


ホームで一度振り返る。


湊は小さく手を上げた。


雨宮も返す。


扉が閉まる。


電車が動き出す。


湊は鞄の中の文化祭資料を思い出した。


少し重い。


少し面倒。


少し不安。


でも、それだけではなかった。


二人でやれば半分。


雨宮が言った言葉を思い出す。


文化祭準備委員。


ただの役割。


それでも、その役割が二人の間に新しい予定を作った。


明日も話す理由がある。


来週も一緒に考える理由がある。


それが湊には、思っていたより嬉しかった。


普通の高校生活は、こういうふうに少しずつ予定が増えていくものなのかもしれない。


そしてその予定の中に雨宮がいることを、湊はもう自然に受け入れ始めていた。

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