第80話 夏の終わりが近づく頃
八月中旬。
夕方。
空は少しだけ高くなっていた。
セミの声はまだ聞こえる。
でも。
風の中に、ほんの少しだけ“夏の終わり”みたいなものが混ざり始めていた。
朝比奈湊は駅前で空を見上げながら、小さく息を吐く。
今日は、特に予定はなかった。
でも。
なんとなく会いたくなって、栞へ連絡した。
『暇?』
送ったのは、それだけ。
数秒後。
『会いたかった』
その返事を見た瞬間、胸の奥が静かに熱くなる。
そして今。
「みなと」
声。
振り向く。
栞。
薄いベージュのワンピース。
夕方の光の中で、その姿がかなり柔らかく見えた。
「待った?」
栞が聞く。
「全然」
本当は、少し前から待っていた。
でも。
その時間すら嫌じゃなかった。
「なんか今日、涼しいね」
栞が空を見る。
「ちょっとだけな」
昼間はまだ暑い。
でも、夕方の風だけは少し変わってきていた。
二人で歩く。
特に目的地はない。
コンビニへ寄って、飲み物を買う。
それだけ。
でも。
最近は、その“それだけ”がかなり好きだった。
「みなと」
「ん?」
「夏休み、あとちょっとだね」
その言葉に、湊は少しだけ止まる。
たしかに。
気づけば、もう八月中旬。
夏休みは、永遠に続く気がしていたのに。
「早いな」
「ね」
栞が少し笑う。
でも。
その笑い方は、少しだけ寂しそうだった。
川沿い。
いつもの場所。
夕方の風。
水の音。
その景色が、かなり落ち着く。
「今年の夏、どうだった?」
栞が小さく聞く。
その質問に、湊は少し空を見る。
海。
花火。
夜の散歩。
電話。
コンビニ。
雨の日。
色んな景色が頭へ浮かぶ。
でも。
その全部に、栞がいた。
「……かなり良かった」
自然にそう答えていた。
栞は少しだけ目を細める。
「またそれ」
「でもほんとだから」
そう言うと、栞は少し笑った。
その顔が、かなり好きだった。
風が吹く。
栞の髪が少し揺れる。
夕方の光。
夏の匂い。
その全部が、妙に綺麗だった。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「去年の夏って、こんな未来想像してた?」
その質問に、湊は少しだけ笑う。
「してない」
即答だった。
去年の自分に、“来年の夏、好きな人と毎日みたいに会ってるよ”なんて言っても、多分信じない。
栞も少し笑った。
「私も」
少し沈黙。
でも。
その静けさが心地いい。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらを見る。
かなり優しい目だった。
「今年の夏、多分ずっと忘れない」
その言葉が、静かに胸へ沁みる。
湊は少しだけ川を見る。
夕陽が、水面へ反射していた。
たしかに。
きっと忘れない。
海へ行った日も。
花火の日も。
夜の電話も。
全部。
「……俺も」
自然にそう返していた。
栞は少しだけ嬉しそうに笑う。
その笑顔を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
少し歩く。
夕方から夜へ変わり始める空。
遠くでヒグラシが鳴いていた。
「夏終わるの嫌?」
栞が聞く。
湊は少し考える。
それから、小さく笑った。
「ちょっと」
正直にそう言う。
すると。
栞も少し笑った。
「私も」
その声が、妙に柔らかい。
「でも」
栞が続ける。
「二学期もちょっと楽しみ」
「なんで?」
「また学校で会えるから」
その瞬間。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
夏休みは特別だった。
でも。
学校で一緒に過ごす時間も、ちゃんと好きだ。
教室。
放課後。
帰り道。
その全部が、自分たちの思い出になっている。
「……たしかに」
湊が言う。
栞は少しだけ笑った。
「文化祭もまたあるし」
「まだ先だろ」
「でも、楽しみ」
その横顔を見る。
夕方の光の中で、かなり綺麗だった。
駅へ向かう。
夜の空気。
少し涼しい風。
夏の終わりが近づいている。
でも。
不思議と寂しいだけじゃなかった。
多分。
“この先も一緒にいる”って、ちゃんと思えているからだ。
「みなと」
「ん?」
駅前。
立ち止まる。
栞が少しだけこちらを見る。
そして。
少し照れながら笑った。
「来年の夏も、一緒にいたい」
その言葉が、真っ直ぐ胸へ入ってくる。
湊は少しだけ息を吐いた。
それから。
小さく笑う。
「……かなり」
またその言葉。
でも。
今日は、その“かなり”に、未来への気持ちまで全部入っていた。
電車が来る。
二人で並んで乗る。
窓の外には、夏の夜。
その景色を見ながら、湊は思う。
“普通の恋”。
最初は、それだけでよかった。
でも今は。
この先の季節も、全部一緒に過ごしたいと思っている。
そして、それがきっと。
“好き”ってことなんだと思った。




