第72話 海へ行く約束
夏休み三日目。
昼前。
外はかなり暑かった。
窓から入ってくる光も、もう完全に真夏の色をしている。
セミの声。
エアコンの音。
静かな部屋。
朝比奈湊はベッドへ寝転びながら、スマホを見ていた。
『暇』
栞から来たメッセージ。
かなりシンプル。
でも。
その一言だけで、少し笑ってしまう。
『俺も』
返信。
すぐ既読。
『電話する?』
その文字を見た瞬間、少しだけ心臓が跳ねる。
最近は電話もかなり自然になってきた。
でも。
未だに少し緊張する。
『する』
数秒後。
着信。
『栞』
その表示を見るだけで、少し胸が温かくなる。
「……もしもし」
『もしもし、みなと』
その声が、耳へ直接届く。
部屋に一人なのに、急に距離が近くなる感じ。
「何してた?」
湊が聞く。
『ごろごろしてた』
「同じだ」
栞が少し笑う。
その声だけで、かなり落ち着く。
『夏休みって感じするね』
「分かる」
昼の空気。
何も予定がない時間。
でも。
好きな人と電話してるだけで、かなり幸せだった。
『ねえ』
栞が小さく言う。
「ん?」
『海行きたい』
その瞬間。
湊は少しだけ止まる。
海。
夏。
好きな人。
その単語の並びだけで、かなり青春っぽい。
「……行く?」
『行きたい』
即答だった。
湊は思わず少し笑う。
「泳げるの?」
『普通に失礼』
「いや、なんとなく」
『泳げるし』
少し拗ねた声。
その感じが妙に可愛い。
「じゃあ行くか」
そう返すと、電話の向こうで少し笑う気配がした。
『ほんと?』
「うん」
『やった』
その声が、かなり嬉しそうだった。
午後。
結局、電話は一時間以上続いた。
海の話。
水着どうするとか。
日焼けしたくないとか。
そんな、完全に“高校生の夏”みたいな話。
でも。
その全部が楽しかった。
『みなと』
「ん?」
『夏休み、楽しそう』
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
たしかに。
去年までの夏休みとは、全然違う。
予定がある。
会いたい人がいる。
それだけで、毎日が少し特別だった。
夕方。
結局、少しだけ会うことになった。
「暇だから」
っていう理由。
でも、多分お互い同じだった。
会いたかった。
駅前。
夕方の光。
少し涼しくなり始めた風。
「みなと」
栞が手を振る。
白いTシャツ。
デニム。
かなりシンプルな格好。
でも。
夏の夕方の光の中で、その姿が妙に綺麗だった。
「電話したあと会うの、変な感じ」
栞が笑う。
「分かる」
さっきまで声だけだったのに、今は隣にいる。
その感覚が少し不思議だった。
コンビニで飲み物を買って、駅前を少し歩く。
夕方。
人も少し多い。
でも。
その中を二人で並んで歩く時間が、かなり好きだった。
「海、いつ行く?」
栞が聞く。
「来週とか?」
「平日?」
「空いてそうだし」
栞は少し嬉しそうに笑った。
「夏休みっぽい」
またその言葉。
でも。
今日は自分も同じことを思っていた。
「みなと」
「ん?」
「海行ったらさ」
栞が少し前を向いたまま言う。
「うん」
「写真いっぱい撮ろうね」
その言葉が、妙に胸へ残る。
写真。
夏。
海。
その全部が、未来の思い出になる気がした。
「……撮る」
湊が言う。
栞は少し笑った。
「あと」
「ん?」
「みなと、多分海でもずっと見てる」
その瞬間。
湊は少し止まる。
「……何を」
「私」
かなり楽しそうな顔。
「絶対そう」
図星すぎた。
「仕方ないだろ」
「認めた」
栞が笑う。
その笑顔につられて、湊も笑ってしまう。
夕方の街。
オレンジ色の光。
夏の風。
その全部が、妙に柔らかかった。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「今年の夏、ずっと覚えてたい」
その言葉に、湊は少しだけ空を見る。
夕焼け。
薄い雲。
セミの声。
たしかに。
今の毎日は、多分ずっと忘れない。
「……俺も」
自然にそう返していた。
少し沈黙。
でも。
その静けさが心地いい。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらを見る。
かなり優しい目だった。
「去年の夏より、今の方がずっと好き」
その言葉が、真っ直ぐ胸へ入ってくる。
湊は少し笑った。
「俺も」
本当に。
今年の夏は、全部が特別だった。
駅へ着く。
電車が来るまで、少し時間がある。
ホーム。
夕方の風。
並んで座る。
「海、楽しみだね」
栞が小さく言う。
「かなり」
またその言葉。
でも。
今日は本当に、その言葉しか出てこなかった。
電車がホームへ入ってくる。
夏の夕暮れ。
好きな人。
これからの約束。
その全部が、胸を少しだけ熱くした。




