第68話 名前を呼ぶ声
水曜日。
七月。
朝から、かなり暑かった。
教室のエアコンはまだ本気を出していない。
ぬるい風だけが、なんとなく流れている。
「学校の冷房って信用できない」
倉田が机へ突っ伏しながら言った。
「税金の限界」
藤堂が適当なことを言う。
三橋は静かに問題集を解いていた。
いつもの教室。
いつもの空気。
でも。
朝比奈湊の中だけ、まだ少しふわふわしていた。
夏祭り。
花火。
キス。
あれから数日経っているのに、未だに思い出すたび落ち着かなくなる。
「おはよう、みなと」
隣。
栞。
その声だけで、心臓が少し跳ねる。
「……おはよう」
栞は席へ座りながら、小さく笑った。
「また反応してる」
「仕方ないだろ」
「最近ほんと分かりやすい」
かなり言われる。
でも。
最近は、その反応を栞が少し嬉しそうに見てくるから、悪くない。
ホームルーム前。
教室は夏休みの話題で盛り上がっていた。
「海行きてえ」
「バイトしたい」
「宿題消えてほしい」
かなり自由だった。
その空気を聞きながら、湊は少しだけ窓の外を見る。
青空。
強い日差し。
セミの声。
完全に夏だ。
「みなと」
小さい声。
「ん?」
「夏休み、いっぱい会えるかな」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。
「……会うだろ」
そう返すと、栞は少しだけ嬉しそうに笑った。
一時間目。
授業。
でも今日は、全然集中できなかった。
理由は、隣。
栞が、いつもより距離が近い。
肩が軽く触れそうなくらい。
別にわざとじゃない。
……多分。
でも、その距離だけで心臓がかなりうるさい。
「みなと」
また小さい声。
「ん?」
「ノート見せて」
その瞬間。
耳元が近い。
かなり近い。
湊は一瞬止まりながら、ノートを少し寄せる。
「ありがと」
その声が、妙に柔らかい。
無理だ。
最近、本当に距離感がおかしい。
昼休み。
今日は珍しく、二人で購買へ行った。
廊下。
夏の光。
かなり暑い。
「アイス食べたい」
栞が言う。
「分かる」
購買前には、かなり人が並んでいた。
みんな考えることは同じらしい。
結局、二人ともアイスを買って、廊下の窓際へ移動する。
少し風がある。
それだけで、かなり涼しく感じた。
「生き返る」
栞がアイスを食べながら言う。
湊はその横顔を見ながら、小さく笑った。
「なんか今日機嫌いいね」
栞が言う。
「そう?」
「うん」
少し考える。
でも。
理由は分かっていた。
最近、本当に幸せだからだ。
「まあ」
湊が少し笑う。
「栞いるし」
反射みたいに出た。
言ったあとで、少しだけ照れる。
でも。
栞の方がもっと止まっていた。
「……急」
かなり顔が赤い。
「思ったから」
「そういうの、最近ずるい」
栞は少し俯きながら笑った。
でも。
かなり嬉しそうだった。
その空気が、すごく好きだった。
午後。
授業。
夏のだるさ。
眠気。
でも。
隣からたまに聞こえる“みなと”って呼び方だけで、全部吹き飛ぶ。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「最近、名前呼ぶの好きかも」
その瞬間。
湊は少しだけ止まる。
「……急だな」
「だって、みなとって呼ぶと反応する」
「するだろ」
「そこ好き」
その返しが、かなりずるい。
放課後。
夕方。
教室にはオレンジ色の光が入っていた。
「帰ろ」
栞が言う。
「うん」
昇降口。
校門。
駅までの道。
いつもの帰り道。
でも。
最近は、その時間が本当に特別だった。
「みなと」
「ん?」
「呼びすぎ?」
栞が少し笑う。
湊は少し考える。
それから、小さく首を横に振った。
「……むしろもっと呼んで」
言った瞬間。
今度は自分で照れる。
でも。
栞は少しだけ目を丸くして。
それから。
かなり嬉しそうに笑った。
「じゃあ呼ぶ」
そのあと。
本当に、何回も名前を呼ばれた。
「みなと」
「ん?」
「みなと」
「何」
「呼びたかっただけ」
そのやり取りだけで、心臓がかなり忙しい。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
ずっと聞いていたかった。
駅が見えてくる。
夕方の空。
少し赤い光。
夏の風。
「ねえ、みなと」
栞がまた呼ぶ。
「ん?」
少しだけ。
栞がこちらを見る。
かなり優しい目だった。
「好き」
その瞬間。
胸の奥が、一気に熱くなる。
突然。
でも。
真っ直ぐだった。
湊は少しだけ止まる。
それから。
小さく笑った。
「……俺も」
栞も笑った。
その笑顔が、夕方の光の中でかなり綺麗だった。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れなかった。
並んで立つ。
揺れる車内。
窓の外には、少しずつ夜になる街。
「みなと」
また呼ばれる。
「ん?」
栞が少しだけ笑った。
「やっぱり、名前呼ぶの好き」
その言葉を聞きながら、湊は思う。
好きな人に名前を呼ばれる。
たったそれだけなのに。
どうしてこんなに幸せなんだろう、と。




