第65話 花火が上がる前
土曜日。
七月。
朝から落ち着かなかった。
理由は、もう考えるまでもない。
夏祭り。
今日。
ついに。
朝比奈湊は部屋で何度もスマホを見ながら、小さく息を吐く。
集合は夕方。
なのに、朝からずっとそわそわしていた。
『浴衣、ちゃんと着れた』
昼過ぎ。
栞から来たそのメッセージで、心臓がまたうるさくなる。
しかも。
そのあとに送られてきた写真。
鏡越し。
淡い青の浴衣。
髪も少しまとめている。
ほんの一瞬見ただけで、湊はスマホを伏せた。
無理だ。
破壊力が高すぎる。
『似合ってる』
やっとそれだけ返す。
数秒後。
『かなり?』
そのメッセージを見て、湊は思わず笑ってしまった。
完全に分かってやっている。
夕方。
駅前。
夏祭りへ向かう人でかなり賑わっていた。
浴衣姿。
屋台の袋。
笑い声。
その全部が、夏って感じだった。
湊は改札前で待ちながら、少し深呼吸する。
落ち着け。
無理だけど。
「みなと」
声。
振り向く。
その瞬間。
本当に、一瞬止まった。
栞。
淡い青の浴衣。
白い帯。
少しまとめた髪。
小さな巾着。
夕方の光の中で、その姿が信じられないくらい綺麗だった。
「……え」
やっと出た声が、それだった。
栞は少し照れたように笑う。
「その反応なに」
「……いや」
無理だ。
語彙が消える。
「かなり似合ってる」
やっとそれだけ言う。
すると。
栞は少しだけ目を細めた。
かなり嬉しそうだった。
「ありがと」
その笑顔が、また心臓に悪い。
「みなとも、ちゃんとしてる」
「祭りだからな」
今日は珍しく、少しだけ髪も整えてきた。
そのことを言われるだけで、妙に照れる。
「なんか」
栞が小さく笑う。
「ほんとデートっぽい」
その言葉で、また心臓が跳ねる。
でも。
今日は否定しなかった。
「……まあ、デートだろ」
そう返すと、栞は少しだけ止まる。
それから。
耳を赤くしながら笑った。
「急にそういうこと言う」
夏祭り会場。
かなり人が多い。
提灯。
屋台。
セミの声。
少しずつ暗くなる空。
その全部が、夏だった。
「何食べる?」
湊が聞く。
栞は少し考える。
「りんご飴」
「女子高生っぽい」
「高校生だから」
その返しに、二人で少し笑う。
屋台を回る。
焼きそば。
たこ焼き。
かき氷。
どこも賑わっている。
その中を、二人で並んで歩く。
「暑い」
栞が小さく言う。
でも。
浴衣姿の栞は、それでもかなり綺麗だった。
「みなと」
「ん?」
「今日、ずっと見てる」
かなりバレている。
「仕方ないだろ」
「そんなに?」
「かなり」
またそれだ。
でも。
今日は本当に、それ以外の言葉が出てこない。
射的。
ヨーヨー。
金魚すくい。
色んな屋台を回る。
その全部が楽しい。
でも。
一番楽しいのは、隣で栞が笑っていることだった。
「みなと」
栞がりんご飴を持ちながら言う。
「ん?」
「ちょっと歩こ」
祭り会場を少し離れる。
川沿い。
人はいるけど、さっきより静かだった。
夜風が少し涼しい。
遠くで祭りの音が聞こえる。
提灯の光が、水面へ映っていた。
「なんか」
栞が小さく言う。
「ん?」
「こういうの、憧れてた」
その横顔は、かなり柔らかかった。
「夏祭り?」
「うん」
栞は少し笑う。
「好きな人と歩くやつ」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
好きな人。
その言葉を、栞が自然に言ってくれることが、未だに嬉しかった。
「……俺も」
正直にそう返す。
風が吹く。
浴衣の袖が少し揺れる。
その景色が、妙に綺麗だった。
「花火、まだかな」
栞が空を見る。
まだ始まっていない。
でも。
空気は少しずつ夜になっている。
「もうすぐだろ」
湊も空を見る。
夜空。
夏の匂い。
少し湿った風。
その全部が、特別だった。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらを見る。
かなり近い。
「今日、ほんと来れてよかった」
その声が、かなり優しい。
湊は少し笑った。
「俺も」
本当に。
今日の景色を、多分ずっと忘れない。
浴衣姿の栞。
夏祭り。
夜風。
全部。
その時。
遠くで、“ドン”という音が響いた。
花火。
空へ、大きな光が開く。
赤。
青。
金色。
夜空が一瞬明るくなる。
「……綺麗」
栞が小さく呟く。
その横顔を見た瞬間。
湊は、少しだけ息を止めた。
花火の光が、栞の横顔を照らしている。
綺麗だった。
本当に。
「みなと?」
視線に気づいた栞が、こちらを見る。
近い。
かなり。
花火の音。
夏の夜。
全部が背中を押してくる。
湊は少しだけ手を握る。
あと少し。
本当に、あと少しだった。




