第63話 雨上がりの匂い
木曜日。
七月。
朝から雨だった。
かなり強い。
窓へ当たる雨音で、教室の中まで少し暗く感じる。
「湿気やば……」
倉田が机へ突っ伏しながら言う。
「髪終わる」
女子たちも騒いでいた。
藤堂は窓の外を見ながら呟く。
「これ絶対帰り晴れるやつ」
「なんで分かるんだよ」
「勘」
かなり適当だった。
朝比奈湊は濡れた傘を畳みながら、小さく息を吐く。
制服の裾も少し湿っている。
夏の雨。
空気が重い。
でも。
嫌いじゃなかった。
「みなと」
隣。
栞。
今日は少しだけ髪がまとまっていない。
湿気のせいだ。
でも。
それが妙に柔らかく見えて、かなり目を引いた。
「……何」
栞が少し笑う。
「見てた」
「いや」
「今絶対髪見てた」
かなり鋭い。
湊は少しだけ視線を逸らした。
「……いつもと違うなって」
そう言うと、栞は少しだけ目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「湿気すごいから」
「でも、なんか好き」
反射で出た。
最近、本当に自然に言ってしまう。
でも。
言ったあとで、ちゃんと恥ずかしくなる。
栞も少しだけ耳が赤かった。
「……最近ずるい」
「思ったから」
栞は少しだけ俯きながら笑った。
一時間目。
授業。
でも今日は、雨音が強すぎて眠くなる。
窓の外。
灰色の空。
流れる雨。
その景色をぼんやり見ていると、時間がゆっくり流れている感じがした。
「みなと」
小さい声。
「ん?」
「今日、なんか静か」
栞が言う。
湊は少し笑った。
「雨の日って眠い」
「分かる」
栞も少し欠伸をした。
その仕草が、妙に可愛い。
昼休み。
雨はまだ続いていた。
教室も少し静か。
みんな、雨の日特有のだるさにやられている。
「夏祭りの日晴れるかな」
佐伯が言う。
その瞬間。
湊と栞、二人とも少し反応する。
「雨だったら最悪」
「浴衣濡れるし」
その会話を聞きながら、湊は少しだけ栞を見る。
浴衣。
その単語だけで、最近かなり心臓がうるさい。
「みなと」
栞が小さく笑う。
「また考えてる」
「……何を」
「浴衣」
図星だった。
かなり悔しい。
放課後。
ホームルームが終わる頃には、雨はかなり弱くなっていた。
「止みそうだな」
藤堂が窓を見る。
たしかに。
空が少し明るい。
「みなと」
栞が鞄を持ちながら言う。
「ん?」
「今日、ちょっと歩きたい」
その言葉に、湊は少しだけ止まる。
「歩く?」
「うん。駅まで遠回り」
理由は分からない。
でも。
断る理由もなかった。
「いいよ」
昇降口。
外へ出る。
雨はもう止んでいた。
空にはまだ雲が残っている。
でも。
風は少し涼しかった。
「雨上がりって感じ」
栞が小さく言う。
たしかに。
アスファルトが濡れている。
空気が少し湿っている。
草の匂い。
土の匂い。
全部が、“雨のあと”だった。
二人で並んで歩く。
今日は少し静かだった。
でも、その沈黙がかなり心地いい。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「この匂い、好き」
湊は少し空気を吸う。
雨上がりの匂い。
少し冷たい空気。
夏の湿気。
たしかに、嫌いじゃない。
「分かる」
栞は少し笑った。
「なんか、青春っぽい」
「それ万能だな」
「でもほんとだから」
夕方。
雲の隙間から、少しだけ光が差していた。
濡れた道路が、その光を反射している。
その景色が、妙に綺麗だった。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけ立ち止まる。
それから。
空を見上げた。
「ちょっと涼しいね」
風が吹く。
その瞬間。
栞の髪が少し揺れる。
雨上がりの空気。
夕方の光。
その横顔が、かなり綺麗だった。
「……栞」
思わず名前を呼ぶ。
「ん?」
栞がこちらを見る。
その瞬間。
湊は少しだけ息を止めた。
近い。
なんとなく。
今、少しだけ近づけば。
そういう空気だった。
でも。
湊は結局、小さく笑うだけだった。
「……いや、なんでもない」
栞は少しだけこちらを見る。
数秒。
それから。
小さく笑った。
「今、なんか言いかけた」
「気のせい」
「分かりやすい」
またそれだ。
でも。
今日は少しだけ違った。
栞も、多分気づいている。
お互い、少しずつ。
“もっと近づきたい”って思い始めている。
駅までの遠回り。
いつもより長い帰り道。
でも。
今日は、その時間がすごく特別だった。
駅が見えてくる頃には、空が少し晴れていた。
夕焼けが、雲の隙間から見えている。
「綺麗」
栞が小さく言う。
「うん」
二人で空を見る。
雨上がりの夕方。
静かな駅前。
その空気が、かなり好きだった。
「ねえ、みなと」
「ん?」
栞が少しだけ照れながら言う。
「今日の帰り道、なんか好きだった」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
湊は少し笑った。
「……俺も」
たったそれだけ。
でも。
その一言だけで、十分幸せだった。
電車が来る。
二人で乗る。
窓の外には、雨上がりの街。
少し濡れた光景。
その景色を見ながら、湊は思う。
恋って、多分。
こういう空気まで特別にしてしまうんだと。




