第61話 浴衣の約束
七月最初の金曜日。
朝。
教室へ入った瞬間、空気が少し違った。
「暑っ……」
倉田がうちわで自分を扇いでいる。
藤堂はすでに半袖シャツの袖を折っていた。
窓は全開。
でも、入ってくる風もかなりぬるい。
完全に夏だった。
「七月って感じするな」
湊が席へ座りながら言う。
すると。
「するね」
隣。
栞。
今日は髪を少しだけ後ろでまとめていた。
首元が見える。
そのせいで、朝から妙に心臓がうるさい。
「……暑そう」
湊が言う。
栞は少し笑った。
「みなと、今違う意味で見てた」
「違う」
「分かりやすい」
最近ほんと全部読まれている。
でも。
そのやり取りが、かなり好きだった。
ホームルーム前。
教室は夏休みの話題で盛り上がっていた。
「海行きたい」
「プール」
「花火大会」
“夏”って単語が飛び交っている。
その空気を聞いているだけで、少し浮つく。
「朝比奈」
藤堂が急に振り返る。
嫌な予感。
「何」
「夏祭りいつ行く?」
「は?」
「雨宮さんと」
教室に笑い声。
もう完全に定番になっている。
「まだ決めてない」
「行くのは確定なんだ」
「うるさい」
でも。
その瞬間。
隣から、小さい声。
「……行きたい」
湊は少し止まる。
栞は少しだけ照れながら、でもちゃんと笑っていた。
「夏祭り」
その言葉が、かなり真っ直ぐ胸へ入ってくる。
一時間目。
授業。
でも。
頭の中には、もう“夏祭り”しかなかった。
浴衣。
夜。
屋台。
花火。
そして、隣には栞。
想像しただけで、かなり落ち着かない。
「みなと」
小さい声。
「ん?」
「今日ほんと分かりやすい」
栞が少し笑っている。
「……誰のせいだよ」
「半分くらい私」
かなり都合がいい。
昼休み。
今日は珍しく、栞の方から話を振ってきた。
「ねえ」
「ん?」
「夏祭り、ほんと行く?」
その声は、少しだけ期待している感じだった。
湊は少し笑う。
「行く」
即答。
栞は少し目を丸くする。
それから。
かなり嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔だけで、かなり幸せになる。
「浴衣とか着るの?」
湊が聞く。
すると。
栞が少しだけ止まる。
「……着るかも」
その瞬間。
湊の心臓が大きく跳ねる。
「……マジ?」
「まだ分かんないけど」
でも。
その言い方は、多分着る。
湊は思わず視線を逸らした。
無理だ。
今から想像するだけでかなり危ない。
「みなと」
栞が少し笑う。
「顔」
「うるさい」
「今、絶対想像した」
図星だった。
放課後。
今日は特に予定はなかった。
でも、自然に一緒に帰る。
夕方。
かなり暑い。
セミの声も少し聞こえ始めていた。
「夏って感じ」
栞が言う。
「まだ始まったばっかだけどな」
「でも、好きかも」
風が少し吹く。
栞の髪が揺れる。
その景色が、妙に綺麗だった。
駅までの道。
いつもの帰り道。
でも。
今日は少しだけ浮ついている。
「みなと」
「ん?」
「夏祭りの日さ」
栞が少しだけ前を向いたまま言う。
「うん」
「花火、見たい」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
花火。
夜空。
浴衣姿の栞。
そんな景色を想像した瞬間、胸の奥が熱くなる。
「……見る」
湊が言う。
栞は少し笑った。
「うん」
少し沈黙。
でも、その静けさが心地いい。
「なんか」
栞がぽつりと言う。
「ん?」
「夏って、ちょっと特別な感じする」
湊は少し空を見る。
青空。
強い日差し。
少し白っぽい雲。
たしかに。
夏って、それだけで少し浮つく。
「分かる」
「高校生の夏って感じ」
またそれだ。
でも。
今日は自分も同じことを思っていた。
駅が見えてくる。
夕方のホーム。
少し汗ばんだ空気。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらを見る。
「今年の夏、いっぱい思い出作ろうね」
その言葉が、真っ直ぐ胸へ入ってくる。
思い出。
たぶん。
この夏は、きっと特別になる。
「……うん」
自然に頷いていた。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
窓の外には、夕方から夜へ変わり始めた街。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「浴衣、ちょっと楽しみにしてていいよ」
その瞬間。
湊の心臓が本気で跳ねる。
「……ずるい」
思わずそう言う。
栞は少しだけ楽しそうに笑った。
「かなり?」
「かなり」
またその言葉。
でも。
今日は、その“かなり”に全部持っていかれた。
電車が揺れる。
夏の風景が流れていく。
その景色を見ながら、湊は思う。
夏は、まだ始まったばかりだ。
そして。
この先の全部を、栞と一緒に過ごせる。
それだけで。
今年の夏は、きっと人生で一番特別になる気がしていた。




