第57話 初めての喧嘩
月曜日。
六月。
朝から少しだけ空気が重かった。
天気のせいじゃない。
朝比奈湊自身の気分が、少し沈んでいた。
理由は、昨夜のメッセージ。
『ごめん、今日ちょっと寝るね』
栞から来たその一言に、湊は少しだけ寂しくなってしまった。
最近、毎晩みたいに電話していた。
メッセージもずっと続いていた。
だから。
急に“今日は無理”って言われたことに、自分でも驚くくらい落ち込んだ。
もちろん。
栞が悪い訳じゃない。
疲れていただけ。
分かっている。
でも。
分かっていても、少しだけ引っかかってしまった。
駅。
改札前。
栞が来る。
「おはよう、みなと」
いつも通りの声。
でも。
湊は少しだけ返事が遅れた。
「……おはよう」
栞が少しだけこちらを見る。
たぶん、すぐ気づいた。
「眠い?」
「まあ」
嘘だった。
でも、うまく言葉が出てこない。
電車へ乗る。
今日は少し混んでいた。
並んで立つ。
でも。
空気が少しぎこちない。
「みなと」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「なんかあった?」
真っ直ぐな声。
でも。
湊は少しだけ視線を逸らした。
「別に」
その返事をした瞬間、自分でも“感じ悪いな”と思った。
栞も少しだけ黙る。
その沈黙が、かなり苦しかった。
学校へ向かう道。
いつもより会話が少ない。
朝の風。
登校する生徒たち。
全部はいつも通りなのに。
二人の空気だけ、少し違っていた。
教室。
「おはよー」
藤堂が元気に入ってくる。
でも。
すぐ止まった。
「……あれ」
かなり察しがいい。
倉田も少しだけ空気を読む顔になる。
三橋は静かに様子を見ていた。
「朝比奈、どうした」
「別に」
またそれだ。
湊自身、自分が面倒くさいのは分かっていた。
でも。
うまく切り替えられない。
一時間目。
授業。
でも、全然頭へ入ってこない。
隣を見る。
栞も少し静かだった。
たぶん、気を遣っている。
そのことが、余計に胸へ刺さる。
「みなと」
小さい声。
「……何」
栞は少しだけ困った顔をしていた。
「怒ってる?」
その質問に、湊は少しだけ止まる。
怒ってる。
違う。
でも。
寂しかった。
それだけだ。
なのに、それを素直に言えない。
「別に怒ってない」
また、変な言い方になる。
栞は少しだけ視線を落とした。
その顔を見た瞬間。
胸が痛くなる。
昼休み。
今日は、珍しく二人とも静かだった。
教室の空気はいつも通りなのに。
二人だけ少し浮いている感じ。
「朝比奈」
倉田が小声で言う。
「ちゃんと話した方がいいぞ」
その言葉が、妙に刺さる。
分かっている。
でも。
何て言えばいいか分からない。
“昨日、電話できなくて寂しかった”
そんなこと。
かなり子供っぽい気がした。
でも。
「みなと」
栞が立ち上がる。
「ちょっと来て」
静かな声だった。
屋上。
昼の風。
曇り空。
人は少ない。
栞はフェンスの近くで止まる。
そして。
少しだけこちらを見た。
「ちゃんと言って」
その声は、優しかった。
責める感じじゃない。
だからこそ、苦しくなる。
「……昨日」
やっと声が出る。
「うん」
「電話できなかったの、ちょっと寂しかった」
言った瞬間。
かなり情けなく感じた。
でも。
栞は笑わなかった。
「そっか」
小さい声。
それだけ。
でも、その返事がかなり優しい。
「ごめん」
湊が言う。
「なんか、自分でも面倒くさいと思った」
栞は少しだけ首を横に振った。
「面倒くさくないよ」
そして。
少し照れたように笑う。
「私も、ちょっと寂しかったし」
その言葉で、胸の奥が一気に軽くなる。
「……え?」
栞は少しだけ視線を逸らした。
「寝ちゃったあと、“電話したかったな”って思った」
その返事が、かなりずるい。
湊は思わず小さく笑ってしまう。
「……なんだそれ」
「お互い様」
二人で少し笑う。
その瞬間。
さっきまでの重い空気が、少しだけ消えた。
「でも」
栞が小さく言う。
「ちゃんと言ってくれてよかった」
その言葉が、静かに胸へ沁みる。
たしかに。
黙ったままだったら、多分もっと変になっていた。
「……ごめん」
もう一度言う。
栞は少し笑った。
「じゃあ仲直り」
その言い方が、妙に可愛かった。
放課後。
帰り道。
空気は、もういつも通りだった。
むしろ。
少しだけ近くなった気がする。
「みなと」
「ん?」
「初めて喧嘩っぽいことしたね」
湊は少し苦笑する。
「かなりしょうもなかったけど」
「でも、ちょっと安心した」
「何が」
栞は少しだけ考える。
それから、小さく笑った。
「ちゃんと恋人っぽい」
その言葉で、湊も少し笑う。
たしかに。
好きだから、寂しくなる。
好きだから、気にしてしまう。
それって、多分ちゃんと恋なんだ。
駅が見えてくる。
夕方の空。
少しだけ涼しい風。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらへ近づく。
そして。
かなり小さい声で言った。
「今日、夜電話する?」
その瞬間。
湊は思わず笑ってしまう。
「……する」
栞も笑った。
その笑顔が、かなり愛しかった。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
肩が少し触れる。
でも。
今日は、その距離がすごく安心した。
窓の外には、少しずつ夜になる街。
湊はその景色を見ながら思う。
恋って、楽しいだけじゃない。
少し寂しくなったり。
不安になったり。
すれ違ったりもする。
でも。
ちゃんと話して、また笑えるなら。
それも全部、悪くないと思った。




