第52話 放課後、二人だけ
木曜日。
五月の終わり。
朝の教室には、少しずつ夏の空気が混ざり始めていた。
窓から入る風。
少し明るい日差し。
制服の袖も、そろそろ暑い。
朝比奈湊は、自分の席へ座りながら小さく息を吐いた。
最近、毎日が穏やかだった。
学校へ来て。
栞と話して。
授業を受けて。
放課後、一緒に帰る。
たったそれだけなのに、かなり満たされている。
「おはよう、みなと」
隣から声。
その瞬間。
湊の心臓が静かに跳ねる。
まだ慣れない。
栞に名前で呼ばれるの。
「……おはよう」
栞が少し笑った。
「また反応してる」
「仕方ないだろ」
「最近ほんと分かりやすい」
かなり言われる。
でも。
そのたびに栞が少し嬉しそうだから、悪くない。
ホームルーム前。
教室はいつも通り騒がしい。
藤堂が何か動画を見て笑っている。
倉田が課題を写している。
三橋は静かに読書。
その空気の中で、湊はふと教室を見回した。
好きだな、と思った。
この教室。
この空気。
前まで、学校なんてただ通う場所だったのに。
今は、ちゃんと“帰ってきた感じ”がする。
「朝比奈」
藤堂が急に言う。
「何」
「最近、顔やばい」
「何が」
「幸せそう」
教室に笑い声。
湊は思わず顔をしかめる。
「うるさい」
でも。
完全には否定できなかった。
一時間目。
授業。
先生の声。
ノートを取る音。
静かな空気。
その中で。
「みなと」
小さい声。
隣。
「ん?」
栞は教科書を見たまま、小さく言った。
「今日、放課後残れる?」
その言葉に、湊は少しだけ止まる。
「……残れるけど」
「ほんと?」
「うん」
栞は少しだけ笑った。
「じゃあ、ちょっと残ろ」
その笑顔が、かなりずるい。
昼休み。
今日は、妙に時間が長く感じた。
放課後が気になる。
理由は分からない。
でも。
“ちょっと残ろ”。
その言葉だけで、かなり意識してしまっている。
「朝比奈」
倉田がパンを食べながら言う。
「今日静かじゃね?」
「考え事」
「雨宮さん?」
藤堂が即答する。
「お前怖いな」
「青春探知機だからな」
「便利すぎる」
教室に笑い声。
その空気が、最近本当に心地いい。
昔なら。
こういう騒がしさを少し遠くで見ていた。
でも今は違う。
ちゃんと、その輪の中にいる。
しかも。
隣には、栞がいる。
午後。
授業はいつも通りだった。
でも、今日は放課後が近づくたび、少しだけ落ち着かなくなる。
何するんだろう。
ただ残るだけかもしれない。
でも。
それだけでも嬉しい。
放課後。
ホームルーム終了。
教室が少しずつ騒がしくなる。
部活へ向かう人。
帰る人。
その中で、栞が小さく言った。
「みなと」
「ん?」
「ちょっと待ってて」
「うん」
数分後。
気づけば、教室にはほとんど人がいなくなっていた。
窓から夕方の光が入っている。
静かだった。
文化祭準備の頃を思い出す。
でも、今日はもっと静かだ。
「……なんか久しぶり」
湊が言う。
栞は小さく頷いた。
「二人だけの教室」
その言葉が、妙に特別に聞こえる。
夕方の教室。
誰もいない空間。
窓の外から聞こえる運動部の声。
全部が、少し青春っぽかった。
「それで」
湊が聞く。
「何するんだ?」
栞は少しだけ考える。
それから、小さく笑った。
「特に決めてない」
「適当だな」
「でも、なんか残りたかった」
その言葉に、湊は少しだけ胸が熱くなる。
帰りたくない。
もう最近、その感覚が増えていた。
栞といる時間が、心地よすぎるから。
栞は自分の席へ座る。
湊も隣へ座った。
窓から風が入る。
カーテンが少し揺れる。
その静かな時間が、かなり落ち着く。
「みなと」
「ん?」
「今、楽しい?」
突然の質問。
でも。
答えは決まっていた。
「かなり」
栞は少し笑った。
「よかった」
「栞は?」
栞は少しだけ窓の外を見る。
夕方の光が横顔へ落ちる。
「私も」
小さい声。
でも。
すごく嬉しそうだった。
少し沈黙。
でも、その静けさが心地いい。
無理に話さなくても落ち着く。
それが、最近すごく好きだった。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「付き合う前と、何が一番変わったと思う?」
湊は少し考える。
それから、小さく笑った。
「距離」
「物理?」
「それも」
栞が少し笑う。
「たしかに」
「あと、安心感」
その言葉に、栞は少しだけ目を丸くした。
湊は少し照れながら続ける。
「前も楽しかったけど、今は……ちゃんと隣にいてくれる感じする」
言ったあと、少し恥ずかしくなる。
でも。
栞はかなり優しい顔で笑った。
「……嬉しい」
その空気が、妙に柔らかかった。
夕方。
教室。
二人だけ。
その時間が、すごく特別に感じる。
「みなと」
「ん?」
栞が少しだけこちらを見る。
それから。
少し迷うように視線を揺らして。
「……手」
小さい声。
湊は一瞬止まる。
「手?」
栞は少しだけ照れながら頷いた。
「繋ぎたい」
その瞬間。
心臓がかなりうるさくなる。
でも。
湊はゆっくり、自分の手を伸ばした。
栞の手。
柔らかい。
温かい。
指が重なる。
教室には誰もいない。
静かな夕方。
その中で、二人だけの時間が流れていた。
「……やっぱり緊張する」
栞が少し笑う。
「俺も」
「かなり?」
「かなり」
またその言葉。
でも。
今はもう、そのやり取りが愛しい。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
ただ、手を繋いだまま窓の外を見る。
夕焼け。
グラウンド。
運動部の声。
全部が、ゆっくり流れていく。
そして湊は思う。
たぶん、自分はずっと。
こういう時間が欲しかったんだと。
特別じゃなくていい。
ただ。
好きな人と同じ場所で、静かに笑っていられる時間。
それが。
何より幸せだった。




