第51話 名前の呼び方
火曜日。
付き合って二日目。
朝比奈湊は、自分でも少し驚くくらい機嫌が良かった。
目覚ましが鳴る前に起きたし、学校へ行く準備も早い。
理由は簡単だ。
学校へ行けば、栞がいる。
しかも今は、“彼女”として。
それだけで、世界が少し軽かった。
駅へ向かう道。
朝の空気。
五月の風。
全部が少し気持ちいい。
スマホが震える。
『もう着く?』
栞から。
湊は思わず口元が緩む。
『あと二分』
すぐ既読。
『私も』
その短いやり取りだけで、かなり嬉しい。
改札前。
栞が先に来ていた。
制服姿。
いつもの景色。
でも。
やっぱり少し特別に見える。
栞も湊に気づくと、小さく笑った。
「おはよう」
「おはよう」
そのあと。
少しだけ沈黙。
まだ、完全には慣れていない。
彼氏彼女になったこと。
その事実が、会うたびにじわじわ実感へ変わっていく。
「……なんか変」
栞が少し笑う。
「昨日も言ってた」
「まだ慣れない」
湊は苦笑した。
「俺も」
電車へ乗る。
今日はそこそこ混んでいた。
並んで立つ。
肩が少し近い。
でも、前みたいな“友達の距離”じゃない。
その違いを、二人ともちゃんと意識していた。
「昨日さ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「家帰ってから、ちょっと変だった」
「何が」
「彼氏できたんだって思って」
その言葉で、湊の心臓が静かに跳ねる。
彼氏。
まだ、自分でもその言葉に慣れない。
「……俺も」
正直にそう返す。
栞は少し笑った。
「湊、昨日ずっとニヤニヤしてそう」
「してない」
「してる」
かなり読まれている。
学校へ向かう道。
朝日。
登校する生徒たち。
その中を、二人で歩く。
昨日より少し自然だった。
でも。
まだ少しだけ緊張する。
「そういえば」
栞が言う。
「ん?」
「付き合ったのに、呼び方変わらないね」
その言葉に、湊は少し止まる。
呼び方。
たしかに。
今まで通り、“湊”と“栞”。
別に変ではない。
でも。
言われると少し意識してしまう。
「変える?」
湊が聞く。
栞は少し考える。
「……まだ恥ずかしい」
「分かる」
「でも、なんか特別感ほしい」
その言葉が、妙に可愛かった。
教室へ入る。
当然、今日も少し騒がしい。
「おはよーカップル!」
藤堂。
朝からうるさい。
「黙れ」
「冷たい!」
倉田が笑っている。
三橋は少し苦笑しながら言った。
「もう完全に定着したね」
たしかに。
昨日で完全にクラス公認みたいになってしまった。
でも。
不思議と嫌じゃない。
むしろ、少しだけ嬉しい。
「雨宮さん」
佐伯が笑いながら言う。
「朝比奈くん彼氏どう?」
「その聞き方やめて」
栞が少し照れている。
その顔を見ているだけで、湊はかなり幸せだった。
一時間目。
授業。
でも、今日は妙にそわそわする。
理由は、さっきの話。
呼び方。
今まで通りでもいい。
でも。
少し変えたい気持ちもある。
「湊」
小声。
隣。
「ん?」
「……試してみる?」
「何を」
栞は少しだけこちらを見た。
かなり照れている。
「呼び方」
その瞬間、湊の心臓が跳ねる。
「今?」
「小声なら」
かなり緊張しているのが伝わってくる。
でも。
その感じが、妙に愛しかった。
少し沈黙。
そして。
「……みなと」
小さい声。
かなり小さい。
でも。
ちゃんと名前だった。
その瞬間。
湊は完全に固まった。
無理だ。
破壊力が高すぎる。
「……何その顔」
栞が少し笑う。
「仕方ないだろ」
「そんなに?」
「かなり」
栞は少しだけ照れながら笑った。
「私も結構恥ずかしい」
その空気が、妙にくすぐったい。
でも。
すごく幸せだった。
昼休み。
今日は珍しく、二人とも少し静かだった。
理由は分かっている。
朝のやつだ。
まだ引きずっている。
「朝比奈」
藤堂がにやにやしている。
「何」
「今日、朝から空気甘くね?」
「殺すぞ」
「図星!」
うるさい。
でも。
完全には否定できない。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
また。
その呼び方。
湊は少しだけ息を止める。
「……何」
「顔赤い」
「誰のせいだよ」
栞は少し笑った。
「慣れて」
「無理」
「即答」
教室に笑い声。
でも、その空気がかなり心地いい。
午後。
授業は相変わらず眠かった。
でも。
隣からたまに聞こえる“湊”って呼び方だけで、全部吹き飛ぶ。
不思議だった。
名前を呼ばれるだけ。
それだけなのに。
こんなに特別に感じる。
放課後。
教室。
夕方の光。
いつもの景色。
でも、隣にはちゃんと栞がいる。
「帰ろ」
栞が言う。
「うん」
昇降口。
校門。
駅までの道。
最近、一番好きな時間。
「……みなと」
また。
小さい声。
でも。
今度は少し自然だった。
湊は少し笑う。
「慣れてきた?」
栞は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「ちょっと」
「俺まだ慣れない」
「分かりやすい」
またそれだ。
でも。
今日は、その言葉がかなり嬉しい。
駅が見えてくる。
夕方の空。
少し暖かい風。
「ねえ」
栞が小さく言う。
「ん?」
「付き合う前も楽しかったけど」
少しだけ。
栞がこちらを見る。
「今の方が、もっと好きかも」
その言葉が、静かに胸へ沁みる。
湊は少しだけ笑った。
「……俺も」
それだけで十分だった。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
少しだけ肩が触れる。
でも、もう離れない。
窓の外には、少しずつ夜になる街。
その景色を見ながら、湊は思う。
“普通の恋”。
それはたぶん。
こういう、小さい幸せの積み重ねなんだと思った。




