第47話 観覧車
金曜日。
五月の終わり。
朝の空気は、もうかなり初夏だった。
窓を開ければ暖かい風が入ってくるし、制服の上着もそろそろ暑い。
教室も、少しずつ夏に近づいている感じがした。
でも。
朝比奈湊の頭の中は、そんな季節より別のことでいっぱいだった。
『また今度?』
一昨日の帰り道。
栞は、言いかけた言葉をちゃんと察していた。
なのに、急かさなかった。
その優しさが、逆にずっと胸へ残っている。
「おはよう、湊」
隣から声。
栞。
今日も当たり前みたいに隣にいる。
でも。
最近は、その“当たり前”が少し怖い。
失いたくないと思ってしまうから。
「おはよう」
湊が返すと、栞は少しだけこちらを見た。
「今日、ちょっと静か」
「考え事」
「また?」
かなり読まれている。
湊は少しだけ笑った。
「まあ」
栞は少しだけ目を細めた。
でも、それ以上は聞かなかった。
その距離感が、最近すごく心地いい。
ホームルーム前。
教室はいつも通り騒がしい。
藤堂が後ろで何か叫んでいる。
倉田が笑っている。
三橋は静かに課題をやっていた。
その空気の中で。
「そういえばさ」
佐伯が女子たちと話していた。
「今度の日曜、遊園地行くらしいよ」
「え、誰が?」
「二組の人たち」
遊園地。
その言葉に、湊は少しだけ反応する。
すると。
「遊園地かー」
隣で、栞がぽつりと言った。
湊は思わずそちらを見る。
「好きなの?」
栞は少し考える。
「嫌いじゃない」
「乗り物平気?」
「ジェットコースターはちょっと苦手」
「意外」
「でも観覧車は好き」
その言葉が、妙に頭へ残った。
観覧車。
昼休み。
湊は珍しく、少しそわそわしていた。
頭の中で、ずっと考えている。
誘うか。
遊園地。
でも、急すぎるかもしれない。
いや、でも。
最近、自分たちはかなり自然に出かけている。
映画。
本屋。
寄り道。
なら。
「朝比奈」
藤堂が急に言う。
「何」
「今日、顔うるさい」
「意味分からん」
「考えてる顔」
かなり鋭い。
湊は適当にパンを食べながら誤魔化す。
すると。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「今日ほんと変」
「そんな?」
「かなり」
またそれだ。
でも今日は、本当に落ち着かなかった。
放課後。
ホームルーム。
先生の話はほとんど頭へ入ってこない。
気づけば、窓の外ばかり見ていた。
夕方。
少しオレンジ色の空。
その景色を見ながら、湊は小さく息を吐く。
言うなら今だ。
たぶん。
放課後。
教室を出る。
いつものように、二人で帰る。
廊下。
階段。
昇降口。
全部がもう自然になっている。
「今日暑いね」
栞が言う。
「夏近い」
「六月だし」
外へ出る。
夕方の風。
少し暖かい。
駅へ向かう道。
最近、一番好きな時間。
「栞」
湊が呼ぶ。
「ん?」
言う。
今度こそ。
ちゃんと。
「……今度の日曜」
「うん」
「遊園地、行く?」
言った。
やっと。
湊は少しだけ息を止める。
断られたらどうしよう。
変に思われたら。
そんな考えが、一瞬で頭を埋める。
でも。
栞は少しだけ目を丸くしたあと。
ゆっくり笑った。
「行く」
その一言だけで、胸が熱くなる。
「……ほんと?」
「うん」
栞は少し照れたように視線を逸らした。
「観覧車、好きだし」
その言葉で、湊は少し笑ってしまう。
「ちゃんと覚えてた」
「結構嬉しかったから」
その返しが、かなりずるい。
駅へ向かいながら、二人とも少しだけ落ち着かない。
でも、その空気が嫌じゃない。
「遊園地とか久しぶり」
栞が言う。
「俺も」
「絶叫乗れる?」
「普通」
「すごい」
「栞は?」
「苦手」
「知ってる」
栞は少し笑う。
「でも、一個くらい頑張るかも」
その言葉が、妙に嬉しかった。
自分と行くから、少し頑張ろうとしてくれている。
そう思ってしまう。
「湊」
「ん?」
「今日、ちょっと嬉しそう」
湊は少しだけ笑う。
「そりゃまあ」
「分かりやすい」
「最近そればっか」
「ほんとだから」
駅が見えてくる。
夕方のホーム。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
窓の外には、少しずつ暗くなる街。
「なんか」
栞が小さく言う。
「ん?」
「遊園地って、デートっぽいね」
その瞬間。
湊の心臓が大きく跳ねた。
かなり。
でも。
栞は窓の外を見たままだった。
冗談っぽく言ったのか。
本気なのか。
分からない。
でも。
その言葉の意味を考え始めたら、もう落ち着けない。
「……まあ」
やっとそれだけ返す。
栞は少し笑った。
「否定しない」
「もう無理だろ」
その返事に、栞はまた少し笑う。
電車が揺れる。
夕方から夜へ変わる街。
その景色を見ながら、湊は思う。
もう。
ほとんど答えは出ている。
あとは。
ちゃんと言葉にするだけなんだと。




