第45話 噂
月曜日。
五月も半ばに入っていた。
朝の空気は、少しずつ初夏に近づいている。
制服の上着が少し暑い。
窓を開けると、柔らかい風が教室へ入ってくる。
朝比奈湊は席へ座りながら、小さく息を吐いた。
最近、学校へ来るのが本当に自然になった。
前みたいに、“ちゃんと馴染めるか”を考えなくなった。
教室へ入れば、話す相手がいる。
放課後になれば、どこかへ寄り道するかもしれない。
そういう毎日が、当たり前になり始めている。
「おはよう、湊」
隣。
栞。
今日も自然に名前を呼ばれる。
「おはよう」
栞は席へ座りながら、小さく笑った。
「今日ちょっと眠そう」
「昨日、夜更かしした」
「ゲーム?」
「動画」
「高校生っぽい」
「便利だなほんと」
栞は少し笑う。
その笑顔を見ていると、朝のだるさが少し薄れる。
ホームルーム前。
教室はいつも通り騒がしい。
でも、その中で。
「ねえ」
女子の声。
「朝比奈くんと雨宮さんって付き合ってるの?」
その言葉で、空気が少し止まった。
湊も止まった。
栞も、少しだけ動きを止める。
言ったのは、隣のクラスの女子だった。
たまたま遊びに来ていたらしい。
悪気のない、普通の質問。
でも。
破壊力がすごかった。
「え、気になるよね」
「ずっと一緒いるし」
周囲も少しざわつく。
藤堂がニヤニヤし始める。
最悪だ。
「いやーどうなんだろうなー」
絶対面白がってる。
湊は思わず顔をしかめた。
「……違う」
とりあえずそう返す。
でも、声が少しだけ弱かった。
女子たちは「えー?」みたいな顔をする。
その時。
「まだ」
栞が小さく言った。
教室が、一瞬静かになった。
湊は完全に止まる。
まだ。
まだ?
今、“まだ”って言ったか?
栞自身も言ったあと少し止まっていた。
でも、もう遅い。
藤堂が机を叩いて爆笑した。
「まだって何!?」
「うるさい!」
湊が反射で言う。
でも、顔が熱い。
かなり。
女子たちは「え、何それー!」と盛り上がり始めていた。
最悪だ。
でも。
栞は少し恥ずかしそうにしながらも、そこまで否定しなかった。
その事実が、湊の心臓をさらにうるさくする。
「雨宮さん攻めるなー」
「青春じゃん」
「だから便利だなお前らの青春!」
教室に笑い声。
でも、嫌な空気ではなかった。
からかわれている。
でも、悪意はない。
むしろ、どこか温かい。
それが少し不思議だった。
一時間目。
湊は全然授業へ集中できなかった。
“まだ”。
その一言が頭から離れない。
隣を見る。
栞は真面目な顔でノートを取っている。
でも、耳が少し赤い。
たぶん、自分も同じだ。
「……栞」
小声で呼ぶ。
「ん?」
「さっきの」
栞は少しだけペンを止めた。
それから、小さく言う。
「勢い」
「勢いで言うことじゃない」
栞は少しだけ笑った。
「でも、嫌だった?」
その質問に、湊は少しだけ黙る。
嫌か。
たぶん、嫌じゃない。
むしろ。
少し嬉しかった。
「……別に」
湊がそう返すと、栞は少しだけ安心したように笑った。
その顔を見ていると、もう何も言えなくなる。
昼休み。
当然、その話題になった。
「“まだ”は強いだろ」
藤堂が腹を抱えて笑っている。
「もう告白一歩前じゃん」
「うるさい」
倉田まで笑っていた。
「でも、あれ普通にドキッとした」
三橋は少し苦笑しながら言う。
「教室止まってたしね」
たしかに。
あの瞬間、一瞬空気が静かになった。
湊は弁当を食べながら、顔を上げられない。
隣では、栞も少し静かだった。
でも、嫌そうではない。
むしろ。
少しだけ照れている感じだった。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「ごめん」
「何が」
「変なこと言った」
湊は少しだけ笑った。
「……まあ、びっくりはした」
「うん」
「でも」
少し言葉を探す。
それから、正直に言った。
「嫌じゃなかった」
栞は少しだけ目を丸くする。
それから、ゆっくり笑った。
「そっか」
その笑顔が、妙に柔らかかった。
午後。
授業。
でも、教室の空気はどこかニヤニヤしていた。
藤堂と目が合うたびに面倒くさい顔をされる。
「朝比奈ー」
「何」
「まだ、だって」
「殺すぞ」
教室に笑い声。
でも、湊自身。
完全には否定できない自分がいた。
もし。
本当にそうなったら。
そんなことを、少しだけ考えてしまう。
放課後。
今日は特に予定はなかった。
でも、自然と二人で帰る流れになる。
教室を出る。
夕方の廊下。
窓から入る風。
少し静かな空気。
「……今日、疲れた」
湊が言う。
栞は少し笑った。
「ごめん」
「いや、栞だけのせいじゃない」
「藤堂くん楽しそうだった」
「人生で一番楽しそうだった」
二人で少し笑う。
階段を降りる。
靴を履き替える。
その動作すら、最近は自然に隣にいる。
「湊」
「ん?」
「ほんとに嫌じゃなかった?」
栞が少し不安そうに聞く。
湊は少しだけ立ち止まる。
そして、正直に言った。
「……ちょっと嬉しかった」
言った瞬間、自分でかなり恥ずかしくなる。
でも。
栞は少しだけ目を細めて笑った。
「私も」
その一言だけで、心臓が静かに跳ねる。
帰り道。
夕方の空。
少し暖かい風。
二人で駅へ向かう。
今日は少しだけ沈黙が多かった。
でも、それは気まずさじゃない。
たぶん、お互い少し意識している。
「噂されるくらい、一緒いるんだね」
栞がぽつりと言う。
湊は少し笑った。
「たしかに」
前なら、そんなことありえなかった。
誰かとずっと一緒にいる。
放課後も。
休日も。
帰り道も。
でも今は、それが自然になっている。
「湊」
「ん?」
「……もし」
栞が少しだけ言葉を止める。
それから、少し前を向いたまま続けた。
「もし、本当にそうなったら」
湊は息を止める。
栞は少しだけ笑った。
「ちゃんと教えてね」
その意味を考えた瞬間、心臓が大きく鳴った。
“そう”。
つまり。
付き合うとか。
好きとか。
そういう話。
湊はしばらく言葉が出なかった。
でも、やっと小さく返す。
「……うん」
栞は少しだけ安心したように笑った。
駅が見えてくる。
夕方のホーム。
電車が来る。
二人で乗る。
並んで座る。
窓の外には、少しオレンジ色の街。
“まだ”。
朝の何気ない一言。
でも、その言葉は。
二人の距離を、少しだけ前へ進めてしまった気がした。




