第44話 少しだけ特別な帰り道
金曜日。
文化祭が終わって一週間。
学校は、少しずつ“普通”へ戻り始めていた。
でも、完全に元通りではない。
教室の空気は柔らかいままだし、クラス全体の距離感も近い。
そして何より。
朝比奈湊自身が、前とは少し違っていた。
「おはよう、湊」
隣から聞こえる声。
栞。
その声を聞くだけで、自然に肩の力が抜ける。
「おはよう」
最近、このやり取りが本当に当たり前になった。
最初は、名前で呼ばれるだけで緊張していたのに。
今は、朝に栞がいないと少し落ち着かない。
「今日、眠そう」
栞が言う。
「昨日ゲームしてた」
「高校生っぽい」
「それ便利すぎるだろ」
栞は少し笑う。
その笑顔を見ると、朝の眠気が少し薄れる。
ホームルーム前。
藤堂が後ろから椅子を引きながら言った。
「なんか最近、一組平和だよな」
「急にどうした」
倉田が笑う。
「いや、文化祭前より空気いい」
三橋も小さく頷いた。
「たしかに」
湊はその会話を聞きながら、少しだけ教室を見回した。
みんな自然に話している。
笑っている。
前より、教室に“居場所”がある感じがした。
そして、自分もその中にちゃんといる。
その事実が、まだ少し不思議だった。
一時間目。
授業。
でも、今日は金曜日だからか、教室全体が少しだるそうだった。
窓から入る風。
先生の声。
ページをめくる音。
そのゆっくりした空気の中で、湊はぼんやり外を見る。
五月の空。
かなり明るくなってきている。
「湊」
小さい声。
隣。
「ん?」
「今日、放課後空いてる?」
その言葉に、湊の心臓が少し跳ねる。
「……空いてる」
「ほんと?」
「うん」
栞は少しだけ笑った。
「じゃあ、ちょっと寄り道したい」
その言い方が、妙に嬉しかった。
寄り道。
最近何度もしている。
でも、“したい”ってちゃんと言われると、やっぱり特別だ。
「どこ」
湊が聞く。
栞は少し考えてから言う。
「まだ決めてない」
「適当だな」
「でも、なんか今日帰るのもったいない」
その言葉に、湊は少しだけ息を止める。
帰るのがもったいない。
それはたぶん、自分も同じだった。
昼休み。
今日は珍しく、かなり平和だった。
誰かが騒ぎすぎる訳でもなく、教室全体がゆるく話している。
藤堂がスマホを見ながら言う。
「来月もう中間だって」
「終わった」
倉田が即死する。
三橋は静かに言った。
「文化祭終わった瞬間現実」
教室に笑いが起きる。
湊も少し笑った。
でも、その会話を聞きながら思う。
時間が進んでいる。
入学してから、もう結構経っている。
最初の頃の緊張感は、もうほとんどない。
その代わり。
今の教室には、“慣れた空気”がある。
「湊」
栞が弁当を食べながら言う。
「ん?」
「今日どこ行く?」
「まだ決めてないのか」
「湊は?」
湊は少し考える。
「本屋とか」
栞が少し目を細めた。
「いいかも」
その反応が嬉しい。
午後。
授業は相変わらず眠かった。
でも今日は、放課後のことを考えている時間の方が長かった。
寄り道。
ただそれだけ。
でも、栞と二人でいる時間は、最近どんどん特別になっている。
放課後。
ホームルームが終わる。
教室が少しずつ騒がしくなる。
部活へ向かう人。
帰る準備をする人。
その中で、湊は鞄を持ちながら隣を見る。
栞も、ちょうどこちらを見ていた。
「行く?」
「うん」
その自然さが、少し嬉しい。
教室を出る。
廊下。
夕方の光。
窓の外から聞こえる運動部の声。
全部が柔らかい。
「なんか久しぶり」
栞が言う。
「何が」
「文化祭終わってから、こういう寄り道」
たしかに。
最近は打ち上げとかクラス全体が多かった。
二人だけでゆっくり帰るのは、少し久しぶりかもしれない。
「本屋でいい?」
湊が聞く。
栞は頷く。
「行く」
駅前の本屋。
夕方だからか、人はそこそこ多い。
二人で並んで店内を歩く。
新刊コーナー。
文庫棚。
参考書コーナー。
特に急ぐ訳でもなく、ゆっくり見る。
その時間が、かなり落ち着いた。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「この前言ってたやつ、これ?」
栞が持っていたのは、前に湊が少し話した小説だった。
「それ」
「面白い?」
「かなり」
栞は少しページをめくる。
真剣な顔。
その横顔を見ていると、妙に静かな気持ちになる。
「じゃあ買おうかな」
その言葉が、なんだか嬉しかった。
自分の好きなものを、栞が手に取っている。
それだけなのに、少し特別に感じる。
本屋を出る頃には、外は少し暗くなっていた。
「なんか、お腹空いた」
栞が言う。
「高校生っぽい」
湊が返す。
栞が少し笑った。
「うつった」
結局、駅前の小さいファストフード店へ入った。
窓際の席。
ポテト。
飲み物。
他愛ない会話。
でも、その時間がかなり心地いい。
「今日」
栞がストローをくわえながら言う。
「ん?」
「なんか落ち着く」
湊は少しだけ笑った。
「分かる」
「文化祭前って、ずっとバタバタしてたから」
「最近やっと普通戻った感じ」
栞は少し考えるように窓の外を見る。
「でも」
「うん」
「今の普通、結構好き」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
今の普通。
放課後。
寄り道。
こういう時間。
たぶん、それを言っている。
「……俺も」
自然にそう返していた。
栞は少しだけ笑った。
店を出る。
夜風が少し涼しい。
駅へ向かう道を、二人で歩く。
人通りも少し減っていた。
「湊」
「ん?」
「最近さ」
栞が少し前を向いたまま言う。
「前より、一緒にいるの自然になったね」
その言葉に、湊は少しだけ黙る。
自然。
たしかに。
前みたいに、いちいち緊張しすぎることは減った。
隣にいることも。
名前を呼ばれることも。
かなり当たり前になっている。
でも。
「……でも、たまに普通に緊張する」
正直にそう言う。
栞は少し笑った。
「知ってる」
「分かるのかよ」
「かなり」
またそれだ。
でも今日は、そのやり取りすら心地いい。
駅が見えてくる。
夜のホーム。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
窓の外には夜の街。
栞が小さく言った。
「今日の帰り道、なんか好きだった」
その言葉が、静かに胸へ沁みる。
ただ、本屋へ行って。
少し食べて。
帰るだけ。
それだけなのに。
湊にとっても、今日はかなり特別だった。
「……俺も」
小さくそう返す。
電車が揺れる。
夜の景色が流れていく。
“普通”。
最初、自分が欲しかったもの。
でも今、その普通は、少しだけ特別なものに変わり始めていた。




