第4話 シャーペン
月曜日の朝は、少し重かった。
高校に入って最初の週末は、思っていたより短かった。
金曜日に高校三日目を終えて、土日を挟んで、また学校へ行く。
たったそれだけなのに、湊には少し不思議な感じがした。
中学の頃なら、月曜日はただ面倒だった。
また一週間が始まる。
また同じ教室へ行く。
また同じ顔ぶれと、同じような話をして、同じように帰る。
そういう繰り返しだった。
でも今は、少し違う。
面倒なのは面倒だ。
眠いし、制服の袖に腕を通すのもまだ慣れない。通学鞄も中学の時より少し重い。
けれど、学校へ行くこと自体が嫌ではなかった。
教室に入れば藤堂たちがいる。
隣の席には雨宮がいる。
それだけで、少しだけ月曜日の重さが薄くなる。
湊は朝食を食べながら、今日から始まる授業のことを考えていた。
英語。
数学。
現代文。
理科。
高校の授業。
中学とは違う、と先生たちは何度も言っていた。
予習が大事。
復習が大事。
最初でつまずくな。
聞けば聞くほど面倒になる言葉ばかりだった。
それでも湊は、昨日の夜に一応時間割を確認し、教科書を鞄へ入れておいた。
忘れ物はない。
たぶん。
玄関を出る直前、念のためもう一度鞄を開けた。
英語の教科書。
数学の教科書。
現代文の教科書。
ノート。
筆箱。
体操服はまだいらない。
大丈夫。
そこでふと、雨宮の顔が浮かんだ。
忘れ物をしないように頑張ります。
自己紹介でそう言っていた雨宮。
たぶんあれは、湊を軽くいじった言葉だった。
思い出すと少しだけ笑ってしまう。
湊は鞄を閉め、家を出た。
駅へ向かう道には、いつもの制服姿が増えていた。
もう入学式の頃の初々しさは少し薄れている。
同じ高校の生徒たちは、自然に友達同士で並んで歩いている。
たった数日なのに、もうそんな風になる。
人間関係は、思っているより早く動いていく。
湊はその速さに置いていかれたくなかった。
電車に乗ると、藤堂からメッセージが来ていた。
昨日作った班のグループ。
『今日から授業だるいな』
倉田がすぐに返している。
『寝たら起こして』
三橋が返す。
『最初から寝る前提なのやめろ』
湊は少し迷ってから、文字を打った。
『俺も眠い』
送信してから、これでよかったのか少し不安になる。
面白くもない。
普通の返事。
けれどすぐに藤堂から返ってきた。
『朝比奈も寝る側か』
倉田。
『仲間』
三橋。
『全員寝るな』
湊は小さく笑った。
電車の中で一人で笑うのは少し恥ずかしくて、口元を手で隠した。
こういうやりとりが、自分にもできている。
それが嬉しかった。
すごく嬉しい、というより、じんわりと安心する感じだった。
学校に着き、教室へ入る。
月曜の教室は、金曜より少しだけ空気が固まっていた。
週末を挟んだせいか、話す相手がいる人はさらに近くなっている。
前の方では藤堂がすでに倉田と話していた。
三橋は席で本を読んでいる。
女子の方もいくつかの輪ができている。
雨宮はまだ来ていなかった。
湊は自分の席に座り、鞄から教科書を出した。
英語。
数学。
現代文。
机の中に入れようとして、ふと隣の机を見る。
雨宮の机は空っぽだった。
来ていないだけなのに、少しだけ物足りない。
そう思ってから、湊は慌てて前を向いた。
別に雨宮を待っている訳ではない。
ただ隣の席だから、来ていないと分かるだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
「おはよ、朝比奈」
藤堂が振り返った。
「おはよう」
「グループ見た?」
「見た」
「三橋が真面目すぎる」
三橋が本から顔を上げた。
「寝ないのは普通だろ」
「出た、普通」
倉田が笑う。
湊もつられて笑った。
その時、教室のドアが開いた。
雨宮が入ってくる。
いつも通り、特に急ぐ様子はない。
でも今日は、少しだけ髪が跳ねていた。
右側の毛先が外にはねている。
湊はそれに気づいてしまった。
雨宮は席に着き、鞄を置いた。
「おはよう」
湊が言うと、雨宮は少し眠そうに返した。
「おはよう」
「眠そう」
「月曜だから」
「分かる」
雨宮は教科書を出しながら、小さくあくびをした。
その動きが妙に自然で、湊は少し笑いそうになる。
雨宮がこちらを見る。
「何?」
「いや、髪」
「え」
雨宮は自分の髪に触れた。
右側の毛先をつまむ。
「あ」
「跳ねてる」
「最悪」
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとでも嫌」
雨宮は手ぐしで直そうとしたが、毛先はまた外へ跳ねた。
湊は笑うのをこらえた。
「直ってない」
「言わなくていい」
「ごめん」
雨宮は少しだけむっとした顔をした。
怒っている訳ではない。
そういう顔もするんだな、と湊は思った。
朝のホームルームが始まる頃には、教室のざわめきがいつもの形になっていた。
山崎が教室に入ってきて、出席を取り、今日から授業が始まることを改めて告げた。
「高校の授業は中学より速いです。最初の一週間で油断すると、後で面倒になります」
教師らしいことを言った。
藤堂が前の席で小さく「もう面倒」と呟き、湊は少し笑いそうになった。
一時間目は英語だった。
担当の先生は、若い女性教師だった。
発音が綺麗で、最初からほとんど英語で挨拶をした。
教室の空気が少し固まる。
「高校では、ただ単語を覚えるだけではなく、自分で使えるようになることを目指します」
そう言われても、湊にはまだ実感がない。
最初の授業は自己紹介に近かった。
先生が英語で簡単な質問をし、生徒が答える。
名前。
好きなもの。
中学で入っていた部活。
英語で言うと、それだけでも妙に難しくなる。
藤堂は勢いで乗り切った。
倉田は声が小さく、先生に聞き返された。
三橋は普通に答えた。
雨宮は短く、でも聞き取りやすく答えた。
湊の番が近づく。
英語で話すのは苦手だ。
頭では分かっている文でも、口に出すと急に不安になる。
自分の発音が変ではないか。
文法が間違っていないか。
周りに笑われないか。
そう思っているうちに、自分の番が来た。
「My name is Minato Asahina. I like music and games. Nice to meet you.」
短い。
本当に短い。
けれど言い終えると、少しだけほっとした。
先生が「Good」と言う。
それだけで救われる。
席に座ると、隣から小さく声がした。
「発音、普通だった」
雨宮だった。
「褒めてる?」
「褒めてる」
「普通って褒め言葉なんだ」
「この場合は」
湊は少し笑った。
授業中なのに、また小声で話してしまった。
二時間目は数学だった。
こちらは一気に現実に戻された。
担当の男性教師は最初から板書が速く、説明も無駄がなかった。
「高校数学は積み重ねです。分からないところを放置すると、すぐに分からなくなります」
それは分かる。
分かるが、初回からそんなに脅さないでほしい。
湊はノートを取った。
隣の雨宮も真面目に書いている。
ただ、数学は少し苦手なのか、時々眉を寄せていた。
先生が例題を出す。
簡単なはずなのに、記号が増えるだけで難しく見える。
教室全体が少し静かになった。
湊は問題を解きながら、隣の雨宮がシャーペンを止めているのに気づいた。
「分かる?」
小声で聞く。
雨宮は小さく首を横に振った。
「途中から消えた」
「何が?」
「理解」
湊は笑いそうになった。
「ここ、たぶんこう」
ノートの端を少し見せながら説明する。
雨宮は湊のノートを見て、少し身を寄せた。
近い。
思ったより近い。
湊は一瞬だけ意識してしまい、説明の途中で言葉が詰まった。
「ここで、えっと、移項して」
「うん」
「で、こう」
「……あ、分かったかも」
「ほんと?」
「たぶん」
雨宮は自分のノートに書き直した。
字は相変わらず綺麗だった。
湊は少しだけ得意な気分になった。
中学の頃、誰かに勉強を教えることなんてほとんどなかった。
自分が特別勉強できる訳でもないし、人に教える立場になることもなかった。
けれど今、雨宮に少しだけ教えられた。
それだけで少し嬉しい。
授業の終わりに小テストの予告がされた。
明後日、今日の範囲から出すらしい。
藤堂が露骨に嫌そうな顔をした。
休み時間になると、藤堂が湊の机に来た。
「朝比奈、数学分かった?」
「一応」
「教えて」
「早くない?」
「俺、もう危ない」
倉田も来る。
「俺も」
三橋が呆れたように言う。
「初回だぞ」
「初回だから危機感持ってる」
藤堂が真顔で言った。
湊は笑った。
その会話に、雨宮も少しだけ笑っていた。
湊はふと思った。
こういう時間が、自分にもあるんだな。
休み時間に誰かが自分の机へ来る。
くだらない話をする。
笑う。
中学にも似たようなことはあったはずだ。
でも、今はそれを少し大事に感じる。
三時間目は現代文だった。
担当教師は年配の女性で、声が落ち着いていた。
最初の授業では、教科書を開く前に「読むこと」について話をした。
「皆さんは文章を読む時、正解を探そうとします。でも文章には、正解だけではなく、感じ方があります」
湊はなんとなく雨宮を見た。
雨宮は前を向いて話を聞いていた。
本を読むのが趣味と言っていたから、こういう授業は好きなのかもしれない。
先生は短い随筆を配り、各自で読ませた。
教室が静かになる。
紙をめくる音だけがする。
湊は文章を読んだ。
内容は、春の朝に見た何気ない景色についてだった。
特別な事件はない。
ただ、いつもの道が少し違って見えるという話。
湊は少しだけ自分のことを思い出した。
高校に入ってから、同じ朝でも少し違って見える。
駅までの道も、電車も、教室も。
それは自分が変わったからなのか。
それとも、変わりたいと思っているからなのか。
授業の最後に、感想を隣の人と話す時間があった。
湊は雨宮の方を見る。
雨宮もこちらを見た。
「こういうの、得意?」
湊が聞く。
「普通」
「出た」
「でも、嫌いじゃない」
「俺、何言えばいいか分からなくなる」
「思ったこと言えばいいんじゃない?」
「それが難しい」
「じゃあ、難しいって思ったって言えば?」
湊は少し黙った。
雨宮はたまに、簡単そうに難しいことを言う。
「雨宮は何思った?」
「いつもの景色って、急に違って見えることあるなって」
「例えば?」
「朝の電車とか」
湊は少し驚いた。
同じようなことを考えていた。
「俺も、ちょっと思った」
「高校入ってから?」
「うん」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「感想?」
「うん」
湊はノートに書いた。
高校に入ってから、いつもの朝が少し違って見えるようになった。
書いてみると、少し恥ずかしい。
でも、嘘ではなかった。
昼休みはまだ始まらない。
今日は午前で終わらず、午後まで授業がある。
高校らしくなってきた。
昼休みの時間になると、教室は一気に騒がしくなった。
弁当を広げる人。
購買へ向かう人。
机をくっつける人。
この時間も、立ち位置が出る。
湊は弁当を持ってきていた。
どうするか迷う前に、藤堂が声をかけた。
「朝比奈、こっちで食おうぜ」
「うん」
湊は席を移動し、藤堂、倉田、三橋と机を合わせた。
ありがたかった。
中学の頃、昼休みの最初に誰と食べるか迷う時間が一番苦手だった。
一度決まってしまえば楽なのに、決まるまでが怖い。
女子の方を見ると、雨宮も班の女子たちと机を合わせていた。
その姿を見て、少し安心する。
湊は弁当を開けた。
藤堂は購買で買ったパンを三つ並べている。
「多くない?」
湊が言うと、藤堂は笑った。
「部活始まったらもっと食う」
「燃費悪そう」
「燃費いい男より強そうだろ」
「意味分からん」
倉田が焼きそばパンを食べながら言った。
「購買の焼きそばパン、普通」
「普通かよ」
「普通にうまい」
また普通だ。
湊は笑った。
昼休みの教室は、いろんな声が重なっている。
誰かの笑い声。
椅子を引く音。
弁当箱の蓋を閉める音。
購買の袋がこすれる音。
その全部が高校生活の音だった。
湊はその中に自分が混ざっていることを、少しだけ信じられない気持ちで受け止めていた。
午後の授業は眠かった。
特に理科は危なかった。
教室の暖かさと昼食後の眠気が合わさって、藤堂は何度も目を閉じていた。
倉田は最初から諦めたような顔をしている。
湊も何度か意識が沈みそうになった。
そのたびにノートへ意味のない線が増えた。
授業の最後、先生が提出用のプリントを配った。
簡単な確認問題だった。
湊は問題を解こうとして、筆箱へ手を伸ばす。
シャーペンがない。
一瞬、固まる。
机の上。
教科書の下。
鞄の中。
ない。
さっきまで使っていたはずなのに。
落としたのかもしれない。
湊は少し焦った。
ボールペンはある。
でもプリントは鉛筆かシャーペンで、と先生が言っていた気がする。
隣を見る。
雨宮はすでに問題を解き始めている。
湊は小声で言った。
「雨宮」
「ん?」
「シャーペン、一本貸してくれない?」
雨宮はすぐに筆箱を開けた。
「いいよ」
差し出されたのは、白いシャーペンだった。
シンプルなもの。
湊は受け取る。
「ありがと」
「忘れ物?」
「いや、どっか行った」
「それを忘れ物と言うのでは」
「学校には持ってきた」
「じゃあ迷子」
「シャーペンが?」
「うん」
湊は笑いそうになりながら、プリントに名前を書いた。
雨宮のシャーペンは、思ったより軽かった。
芯の出方が少し違う。
他人の筆記具を使うと、妙にその人の生活に触れたような気がする。
そんな大げさなことではないのに。
確認問題を解き終え、プリントを提出する。
授業後、湊は机の下を探した。
シャーペンは椅子の足元に落ちていた。
「見つかった」
雨宮に言うと、彼女は頷いた。
「よかったね」
「迷子だった」
「帰ってきた」
「おかげで助かった。ありがと」
湊は白いシャーペンを返した。
雨宮は受け取って、筆箱にしまう。
「今度忘れたら、有料」
「いくら?」
「消しゴム一回分」
「安いな」
「積み重なると高い」
「利息ある?」
「ある」
「怖い」
雨宮は少しだけ笑った。
その笑い方に、湊はだいぶ慣れてきた。
大きく笑わない。
声を立てることも少ない。
でも、目元が少しだけ緩む。
それを見ると、なんとなく安心する。
放課後。
本格的な授業初日は、思っていたより疲れた。
山崎が最後のホームルームで連絡事項を話す。
「明日から部活動見学が始まります。興味あるところは見に行ってください。あと、クラスLINEについては学級委員中心に作るらしいので、必要な人は入ってください」
教室が少しざわつく。
クラスLINE。
ついに来た。
学級委員の女子が前に立ち、QRコードを黒板に貼った。
「入りたい人はこれでお願いします」
入りたい人、という言い方だったが、ほとんど全員が入る空気だった。
湊もスマホを出す。
藤堂が前から言った。
「朝比奈、入った?」
「今」
「名前ちゃんと分かるやつにしとけよ」
「分かってる」
湊は表示名を確認した。
朝比奈湊。
普通。
グループに参加すると、次々に名前が増えていく。
雨宮栞。
その名前を見つけた時、湊は少しだけ指を止めた。
別に連絡する訳ではない。
ただ同じグループに入っただけ。
でも、画面の中に雨宮の名前があることが、少し不思議だった。
湊はスマホを閉じた。
放課後、藤堂たちは部活見学の話で盛り上がっていた。
「バスケ部見に行くけど、誰か来る?」
「俺は今日は帰る」
倉田が即答する。
三橋は図書室を見たいと言った。
湊は迷った。
何か部活に入った方がいい。
高校生活を謳歌するなら、部活はかなり大事だ。
でも、まだ決めきれていない。
「朝比奈は?」
藤堂に聞かれる。
「今日は一回帰る。明日見ようかな」
「おっけ。じゃあまた明日」
藤堂たちは教室を出ていった。
湊は鞄を持ち、隣を見る。
雨宮も帰り支度をしていた。
「雨宮は部活見学?」
「今日は帰る」
「そっか」
「朝比奈も?」
「うん」
少し間が空く。
昨日までなら、ここで自然に駅まで一緒に行く流れになったかもしれない。
でも今日は、湊が少し迷った。
誘うほどの関係なのか。
たまたま帰るタイミングが合っただけなのか。
そう考えていると、雨宮が先に言った。
「駅まで行く?」
湊は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、なるべく普通に答えた。
「行く」
教室を出る。
廊下には部活動見学へ向かう生徒が多かった。
運動部の上級生が新入生に声をかけている。
吹奏楽部の音が遠くから聞こえる。
体育館の方からはボールの跳ねる音。
高校が、放課後の顔になっていた。
湊と雨宮は並んで歩いた。
人一人分くらいの距離。
最初より少し近い気もするし、変わっていない気もする。
「授業、疲れたな」
湊が言った。
「うん」
「数学、いきなりだった」
「理解が消えた」
「言ってたな」
「明後日小テストだよね」
「らしい」
「朝比奈、数学できる?」
「普通」
「出た」
今度は雨宮が言った。
湊は笑った。
「でも今日の範囲なら、たぶん」
「じゃあ分からなかったら聞く」
「俺でよければ」
「うん」
その何気ない言葉が、湊には少し嬉しかった。
頼られた、というほど大げさではない。
ただ、分からなかったら聞く。
それだけ。
でも、誰かの役に立てるかもしれないと思うと、自分の居場所が少し増えたような気がした。
駅までの道は、春の夕方だった。
部活へ向かう生徒たちの声が背中から遠ざかっていく。
駅前の信号で止まる。
雨宮がふと湊の鞄を見た。
「今日、シャーペン落としたでしょ」
「うん」
「明日も落としそう」
「そんなに信用ない?」
「少し」
「少しならある?」
「少しは」
湊は笑った。
信号が青になる。
二人で歩き出す。
駅の改札を抜け、ホームに立つ。
今日は昨日より少し空いていた。
電車を待つ間、雨宮がスマホを見た。
湊のスマホも震えた。
クラスLINEだった。
藤堂が写真を送っている。
バスケ部の体育館らしい。
『見学きた。めっちゃ走ってる』
倉田が返す。
『俺は帰ってる。勝ち』
三橋が返す。
『何に勝ったんだ』
湊は笑った。
雨宮もスマホを見て、少しだけ笑っていた。
同じグループを見ているのだと分かった。
「クラスLINE、うるさくなりそう」
雨宮が言った。
「藤堂いるからな」
「明るいよね」
「うん」
「朝比奈、藤堂くんたちと仲良いね」
「まだ三日くらいだけど」
「でも、よかったね」
その言い方は、からかいではなかった。
湊は少しだけ照れた。
「雨宮も女子と話してるじゃん」
「うん。まだ探り探り」
「分かる」
「ずっと探り探りかもしれない」
「それも分かる」
二人で小さく笑った。
電車が来る。
乗り込む。
今日は席が一つだけ空いていた。
雨宮が先に気づいた。
「座る?」
「いや、雨宮座れば」
「一駅だからいい」
「俺も二駅」
「じゃあ譲り合い失敗」
結局、二人とも立った。
空いた席には知らない会社員が座った。
湊は少し笑った。
「何やってんだろ」
「普通の譲り合い」
「普通って難しいな」
「でしょ」
電車が動き出す。
窓の外に夕方の街が流れる。
湊はつり革につかまりながら、今日一日を思い返した。
本格的な授業。
藤堂たちとの昼休み。
雨宮に数学を少し教えたこと。
シャーペンを借りたこと。
クラスLINEに入ったこと。
どれも大した出来事ではない。
でも、湊にとっては全部が少しずつ新しかった。
中学の頃にも似たような日常はあったはずなのに、高校では一つ一つが妙に記憶に残る。
それはきっと、自分が変わりたいと思っているからだ。
そして、隣に雨宮がいるからかもしれない。
そう思って、湊は少しだけ自分に驚いた。
隣にいるから。
その言葉が、自然に頭に浮かんだことに。
雨宮の降りる駅が近づく。
「じゃあ、また明日」
雨宮が言った。
「うん。また明日」
その言葉も、だいぶ自然になってきた。
雨宮は電車を降りる。
ホームに立ち、軽く振り返る。
湊は小さく手を上げた。
雨宮も少しだけ手を上げた。
扉が閉まる。
電車が動く。
湊はしばらく窓の外を見ていた。
普通の月曜日だった。
授業が始まって、少し疲れて、友達と話して、隣の席の女子にシャーペンを借りた。
ただ、それだけ。
でも湊は、その“ただそれだけ”が少しずつ自分の中に積もっているのを感じていた。
高校生活は、まだ始まったばかりだ。
普通の恋なんて、まだどこにもない。
けれど。
普通の毎日なら、少しずつ始まっている気がした。




